第27話 シリン姫


(ああ……この人が、そうなんだ)


 五大部族の姫君かと思った女性は、よく見ると風草ファンユンの民とは少し違う風貌をしていた。髪の色や目の色が違う。けれど何より違うのは、遊牧民の女に共通する馬を駆る強さが彼女からは感じられないことだった。


 目の前にいるこの儚げな女性が、蘭夏ランシァの王女なのだ。

 そう気づくなり、感覚のなくなった指先が小刻みに震えだした。

 今すぐ彼女の前から逃げ出したいのに、足は大地に凍りついてしまったように動かない。体からは急激に体温が奪われて、カナンは凍ってしまいそうなほど寒かった。


「どうしても、その方に会ってお話がしたいのです。どうか取り次いでは頂けないでしょうか? わたくしはシリン。蘭夏から参りました」


 真っ白な頬に、黒曜石から溢れた涙が滑り落ちる。


(なんて……綺麗な人なのだろう)


 目の前にいる女性は、紛れもない姫君だった。

 彼女はきっと、目の前にいる薄汚れた少年が水龍国スールンの姫だなんて夢にも思わないだろう。

 普段感じたことのない強烈な劣等感が、カナンの心をきりきりと絞めつけた。少しでも気を抜けば、恥ずかしさのあまりに俯いてしまいたくなる。


「えっと……水龍国の姫なんて、いらしてなかったと思いますけど……その人に、どんなご用があるのですか?」


 カナンは勇気を振り絞って口を開いたが、勢い余って不躾な質問になってしまった。

 自分が水龍国の姫だと名乗ることは出来ないが、彼女がわざわざ自分に会いに来た理由は知りたかった。


「シリン様、戻りましょう」

「アルティン、お願い」


 黒い外套の青年が再び促すが、彼女はやはり首を振った。


「わたくしは、ある方と婚約しました。ですが……その方には、心に想う女性がいるらしいのです。その女性が水龍国の姫ならば、わたくしは、その方に会って、お許しを頂きたいのです」


「お許し?」


「そうです。わたくしがあの方のお傍にいるお許しを頂きたのです。いずれあの方は、わたくしとの婚約を解消するでしょう。でも、わたくしはあの方のお傍を離れたくないのです。ずっとお慕いしていたのです。あの方の姿をこっそり見ていたあの頃に比べれば、今がどれだけ幸せなのかわかっているつもりです。ですが……わたくしは、あの方を愛しているのです。お傍にいたいのです。水龍国の姫が、いずれあの方の正妃となるお方ならば、わたくしがあの方のお傍に残ることを、お許しを頂きたいのです」


 涙ながらに話すシリンの言葉を聞いて、カナンは胸を貫かれたように苦しくなった。

 彼女に比べたら、自分は果たしてトゥランをどれだけ愛しているのだろう。彼を想って来た年月も、熱量も、まるで比べ物にならない。


(勝てる気がしない……)


 結んだ唇が震えてくる。それでもカナンは無理やり笑みを浮かべた。


「それは……きっと何かの間違いですよ。その人は、水龍国の姫とは婚約してないんでしょ? ぼくが思うに、それほど大切な相手なら、誰よりも先に婚約しておくのではないでしょうか? ぼくならそうしますけど」


「え?」


 カナンの言葉が意外だったのか、シリンが目を丸くした。


「あなたがそんな風に思い詰めるんだから、きっと他人にはわからない事情があるのでしょう。でも、あなたのように美しくて優しい人を嫌いになる男はいませんよ! 大丈夫、もっと自信を持ってください!」


 シリンを勇気づけてあげたいと思ったのは本心だった。なのに、励ませば励ますほど、悲しくて目頭が熱くなってくる。

 必死に涙をこらえながら、カナンはにっこりと笑った。


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