第30話 復路にて


 ひとつに交わるかと思われた二つの軌跡は、触れそうなほど近づいただけで、再び離れていった。

 一方は西へ。もう一方は東へと。



「はぁーあ! まさかが、あのトゥラン皇子と恋仲だったとはね! 言っておくけど、この話を青湖シンファ出発前に知ってたら、間違いなくおまえのことを月紫国ユンシィの工作員だと思ったからな!」


 もうすぐ青湖領へ入れるという所まで戻って来た時のこと。山の中の最後の休憩で、イビスはようやく今まで誰も触れなかった話題を口にした。

 拗ねたような口調になっているのは、今まで我慢に我慢を重ねて来たからだろう。

 トゥランがサラーナの屋敷を去るまで蚊帳の外に出されていたイビスは、事の次第を聞かされてからもずっと沈黙を貫いていた。


 彼はキースと共に、サラーナやゾリグと会談を重ね、これからの属領について語り合った。もちろんトゥランの野望についても、彼らに根掘り葉掘り質問した。その代わりに、シムルについても出来る範囲内で情報を開示した。互いに相手が裏切ったら情報漏洩を恐れるほどに語り合った後で、彼らは風草ファンユンの都を出立した。


「もしもこの話が漏れたら、シムル内部には少なからず動揺が走るだろう。だから、俺はこの話を聞かなかったことにする。そもそもお前はケイルで、水龍国の姫はもう国へ帰ったことになってるんだからな!」


 パチパチと爆ぜる焚火を囲み、熱いお茶を飲んでいたカナンは、目を瞬かせながらイビスを見返した。


「いいか? 絶対に、女だってバレんなよ!」


 イビスは、カナンとトゥランの関係を黙っていると言ってくれた。

 それを青湖の手前で誓ってくれたのは、彼なりの優しさなのだろう。この先はカナンであることを忘れ、ケイルとして過ごせと彼は言っているのだ。

 彼の気持ちが、とても嬉しかった。


「ありがとう、イビスさん。絶対にバレないようにします」


 笑みを浮かべたカナンの瞳から、ほろりと一粒涙がこぼれた。



 〇     〇



 カナンたちよりも先に都を旅立った、もう一方の旅人。

 南西に向かうトゥランは、馬ではなくシリンの馬車に同乗していた。

 シリンの護衛騎士アルティンは不快の色を浮かべたが、顔色の悪いトゥランを、ヨナが無理やり馬車に押し込んだのだった。


 トゥランは馬車の窓枠に左肘をつき、頬杖をついて窓の外をぼんやりと見ていた。

 枯れ草の平原は、いつの間にか草の生えた砂丘へと変わっていた。もう蘭夏ランシァとの領境が近いのだろう。


 懐に入れた右手の指先は、くしゃくしゃの封筒に入ったままの丸いふくらみを無意識になぞっている。封筒から指輪を取り出さないのは、封を開けてしまったら手紙を読んでしまうからだ。

 トゥランはカナンの手紙を絶対に読まないと心に決めていた。別れの手紙など読みたくないし、このままカナンにつき返してやりたい思いでいっぱいだった。


(あいつ……)


 冷静になった今、トゥランはこの手紙の不審点に気づいていた。

 もしも、本当にカナンが青湖シンファに残っていたのなら、この手紙を風草ファンユンに向かうトールに預けたのは不自然だ。彼女はトゥランが風草に向かっていることなど知らなかったはずなのだから。


 それに、カナンがいくらトゥランの婚約に怒っていたとしても、大切な形見の指輪を他人であるサラーナに預けるだろうか。サラーナに渡したところで、いつトゥランの手に届くかわからないのに。

 普通に考えれば、大陸郵便を使うはずだ。そのことに思い至った時、トゥランは、カナンが風草に来ていたと確信した。


 あの時探し回っていたら、サラーナの屋敷の中でカナンを見つけられたかも知れない。


(……どこに隠れていたんだ?)


 どうして自分は、あの時カナンを探さなかったのだろう。

 今さら後悔したところで何も変わりはしないし、たぶんあの時のトゥランは、自分で思っている以上に傷つき、我を忘れていたのだ。


「はぁ~」


 ため息をついた時、視線を感じた。

 向かいの席に座るシリンが、穏やかな笑みを浮かべていた。


「ずいぶん、落ち着いているな」


 風草に向かう道中は、青白い顔に縋りつくような表情を浮かべていたのに、今の彼女は驚くほど穏やかだ。


「風草へ行って気が済んだのか?」


 トゥランが水龍国スールンの姫に会いに行くと知って、シリンはこの旅について来た。当然、トゥランが目的を果たせなかった事も知っている。


「はい。トゥラン様にはご迷惑だったでしょうが、わたくしは来て良かったと思っています。何事にも自信のなかったわたくしに、もっと自信を持つようにと言って下さった方がいました。とても驚きました。でも、不思議とその方の言葉がスッと心に染み込んで、心が温かくなりました。意気地なしのわたくしにも、勇気が宿ったような気がしたのです」


 普段は色味のないシリンの顔が紅潮している。

 恥ずかしそうではあるが、確かに彼女の顔には自信に満ちた輝きがある。

 いったいどんな賢者が彼女の心をこれほど動かしたのだろうかと、トゥランは興味が湧いた。


「あなたに自信を植え付けた賢者は、一体どんな人なんだ?」

「賢者だなんて……」


 シリンはクスクスと上品に笑った。


「彼は、たぶん、お屋敷で働く少年です。門番の方たちと一緒にいましたから、門番の見習いだったのかも知れませんね。とても笑顔の素敵な少年でした」


 穏やかに笑うシリン。

 彼女の顔を見つめたまま、トゥランは目を瞠った。

 眼裏まなうらに浮かんだのは、初めて会った時のカナンの姿だった。シオンの姿をして、太陽のように笑っている。


(まさか……シリンに会ったのか? だからカナンは…………)


 息を呑んだまま、しばらく息をすることが出来なかった。口元を手で覆い、振り切るようにシリンから窓外の景色へと視線を戻す。

 いつの間にか草原が終わり、窓の外には砂の大地が広がっていたが、トゥランの目は何も映してはいなかった。


  

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