第35話 交渉
王宮正殿の中にそびえ立つ水龍宮の最上階で、トゥランは水龍王と二人だけで昼食をとっていた。
大きく開け放った正面の窓からは、王宮はもちろん都の隅々までが見渡せた。
部屋の中には王の護衛も使用人も、もちろんヨナの姿もない。壁を隔てた場所にはいるのだろうが、小さい声ならば聞かれる心配がないほど部屋は広い。
「トゥラン皇子、あと数日ほどで北の街道が通れるようになると連絡が来ました。早く帰国されたいでしょうが、あと少しだけお待ちくだされ」
王は朗らかに、年若い大国の皇子に話しかける。
「いくらでもお待ちしますよ。この国はわたしの肌に合っている。永住しても構わぬほど好ましく思っていることは、先日お話ししましたよね?」
トゥランもにこやかに答える。
「これは……驚くほどの惚れこみようですな」
「ええ、自分でも驚いています。ですが、陛下はなかなかお返事を下さらない。わたしが
「それも、ありますな」
王は、玻璃の杯に入った西方の果実酒を一口飲んだ。
「その件では、皇帝陛下も心配されているのですよ。実は、わたしが帰国する際に、留学する王太子とご一緒するようにと連絡が来ました」
「それは……鳥便ですかな?」
王が初めて顔色を変えた。
「ええ。わが
「さすがは月紫国ですな」
王は賛辞の言葉を口にする。
できれば返答は避けたかった。トゥラン皇子は外交に慣れている。大国の優位性があるにしても、それだけで倍以上も年上の他国の王と、なかなか対等に話せるものではない。
(若いが、侮れん皇子だな)
王がそう思った時、トゥランがふっと笑みを浮かべた。
「そういえば、シオン王子はだいぶ回復されたようですね。よほど妹姫の看病が良かったのでしょうか?」
「さて……」
「しかし、毒による体の衰弱は激しい。シオン王子に留学は無理でしょう? 陛下は結局、ユジン王子とコウン王子のどちらに王位を継がせるおつもりなのですか?」
「それはまだ。しかし、早晩発表できるでしょう」
「それまでには、もう一つの返事も頂きたい。帰国したら、わたしは皇帝陛下に、この国の民になりたいとお願いするつもりです」
王は困ったようにため息をついた。
「トゥラン皇子、あなたのご希望に添えない場合は、末のイーファを……」
ふいに細められたトゥランの目を見て、王は一瞬言葉を詰まらせた。
「イーファは、スーファとは違い分をわきまえております」
言い訳のように言葉を続けると、トゥランの目が和らいだ。
「わたしは以前から、陛下はとても威圧的なお方だと思っておりました。この国で陛下に異を唱えることが出来る者はいないでしょう。そんな陛下にも、出来ぬことがあるようですね。それとも、わたしに不服があるのでしょうか?」
挑むようなトゥランの言葉に、王はため息とともに首を振る。
「恥ずかしながら、この国には男女の双子を忌む風潮があるのです。かつて、男女の双子の娘の方が、国を滅ぼしたという伝説があるのです。もし存在しないはずの王女をいきなり王家に戻せば、臣民の不安をかき立てます」
「そうですか。もちろん……わたしの申し出を受けるのも断るのも、陛下の自由です」
トゥランは立ち上がると、王に対する礼もせずに部屋を出て行った。
「王とのお話はどうでしたか?」
部屋を出るとすぐ、どこからかヨナがやって来た。
「何とも言えないな。本心が見えない」
歩きながら、トゥランは肩をすくめる。
「そうでしょうね」
階段を下りると、廊下の先にスーファ王女が侍女を連れて立っていた。
「あ……あの、トゥランさま……」
「これは、スーファ王女さま。明日、トルアン王国に向けてご出立と聞きました。心からお祝い申し上げます」
トゥランは恭しくお辞儀をする。
「あ、ありがとうございます」
「気候もずいぶん違うでしょう。どうかお体に気をつけて」
もう一度恭しく礼をすると、トゥランは衣の裾をひるがえしてスーファの前を通り過ぎてゆく。
背中にスーファの視線を感じても、一度も振り返りはしなかった。
翌朝早く、たくさんの馬車を連ねたスーファ王女の一行が、トルアン王国に向けて旅立って行った。
〇 〇
ぐっすり眠って目が覚めると、見慣れた天井が目に入った。
(あたし、いつ部屋に戻ったんだっけ?)
カナンはここしばらく、自分の部屋に戻ったことはなかった。なのに、見えるのはカナンの部屋の天井だ。
「カナン、目が覚めたか」
扉が開いて、サウォルが入って来た。
「たった今、スーファ王女が出発されたよ。船で川を下って、南部の港からトルアン王国の船に乗り換えるらしいよ」
「……そう」
カナンはぼんやりとスーファの姿を思い浮かべた。シオンの姿でしか会ったことは無いが、自分の気持ちに正直な、真っすぐな王女さまだった。
「サウォル兄さま、シオンさまの具合はどう?」
カナンはようやく寝台から起き上がった。久しぶりにぐっすり眠ったせいか、体が重い。
「今朝は粥を全部食べられたよ。大丈夫、シオン王子は回復されているよ」
サウォルは、起き上がったカナンの頭をそっと抱きしめた。
「よく頑張ったな」
「うん」
「早く南へ帰ろう。母上が心配している」
「あたし……帰っても、いいのかな?」
「カナン?」
サウォルは驚いて、カナンの顔をのぞき込んだ。
「あたしがシオンさまの身代わりをしたせいで、何だか、余計な争いを起こしてしまった気がするの……」
「何を言っているんだよ。身代わりをカナンに命じたのは王じゃないか!」
「でも、あたしが王位継承権の話なんかしなければ、何も起こらなかったかも」
「そうとは限らないよ。王位に関心がある人間なら、カナンが話さなくても、いずれは自分から持ち掛けたはずだ。あの晩餐会でのコウン王子のようにね」
確かにそうなのかも知れない。シオンが自ら王位継承権を手放さなくても、コウン達はシオンの事を不適格だと言い出したかも知れない。
「……でも、いろんなことを目茶苦茶にした自覚はあるの。もっと慎重に考えて話すべきだったのよ。トゥラン皇子にも、もっとちゃんと対応をしていたら……」
「それだって、全部カナンを代役に立てた王の責任だ! おまえはそのせいで命まで狙われたんだぞ、責任を感じる必要なんかないんだ!」
「サウォル兄さま……」
「ごめん……何か、食べる物を貰ってくるよ」
部屋を出てゆくサウォルの後ろ姿を、カナンはぼんやりと見送った。
近習だったルウェンが殺されてしまったことで、シオンの毒殺を指示した黒幕を突き止めることは出来なかった。それでも、シオンが奇跡的に回復したことで、王子宮には穏やかな空気が戻ってきている。
シオンの暗殺を指示した人間がいる以上、これからもシオンの命は危険なままかも知れないが、王が後継者を指名すればそれも無くなるかも知れない。
(きっと……ううん、絶対に大丈夫だ)
カナンは前向きに考えることにした。
朝食を終えたカナンがシオン王子の部屋の前まで行くと、扉を守る二人の兵士は、何も言わずに扉を開けてくれた。
「あ……ありがとうございます」
カナンはお礼を言って扉をくぐった。
シオン王子が倒れた後、カナンは何度か侍女の姿でこの扉を通ったけれど、それまでこの王子宮では、カナンの存在を知る者はほとんどいなかった。王子宮の侍女たちともあまり顔を合わせないようにしていたのは、王子の代役をするにはその方が都合がよかったからだ。
今のカナンは『都に遊びに来たナガルの妹』という立場で、本来なら、こうして気軽に王子の居室に入れるような身分では無いはずだった。
「カナンさま」
カナンが部屋に入って行くと、ちょうどユイナが王子の寝室から出てきたところだった。手には薬湯の器を持っている。
「シオンさまは、ほんの少し前にお休みになってしまわれたのですよ」
「そうでしたか」
「カナンさまもお疲れでしょう。シオンさまがお目覚めになるまで、ゆっくりしていて下さい」
ユイナの気づかうような視線に、カナンは笑顔を浮かべた。
「あたしは元気ですよ。ぐっすり眠ったら、すっきりしました」
ユイナを安心させようと、胸の前で両方の拳をグッと握りしめた時、ジィンが入って来た。
「ああ、やはりここにいたか。カナン、おまえに客だ」
「客?」
カナンはジィンの方へ向き直る。
「客と言うか……イーファ王女がおまえに会いたいらしい。王女付きの侍女がおまえを迎えに来ているんだ。どうする、断るか?」
「イーファ王女が、あたしに?」
カナンがイーファに会ったのは、シオンの代役として晩餐会に出たほんの数回だけだし、イーファはカナンの存在など知らないはずだ。
「おまえも疲れているだろう? 無理することは無いぞ」
どういう訳か、ジィンはこのところカナンに優しい。正直言って調子が狂うが、嫌味を言われるよりはずっとマシだ。
「いえ、行きます」
イーファがなぜ自分に会いたいのか、カナンは興味があった。
「そうか。宮の外で待っているはずだ。念のため、下の兄でも連れて行け」
「はい」
心配顔のジィンに、カナンは不思議な気持ちでうなずき返した。
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