第34話 ホクロの男
シオン王子の近習として毒見役をしていたルウェンは、下級貴族の五男だった。
貴族といっても下の方になると、裕福な商人に比べ、その生活はあまり豊かではない。
ナガルが探し当てたルウェンの屋敷もそれ相応の大きさで、出てきた使用人も夜分の訪問に迷惑そうな表情を隠そうともしなかった。
「ルウェンさまなら、毎晩アルノの酒場で飲んでますよ。すぐそこの角です」
使用人はそう言うと、すぐに扉を閉めてしまった。
ナガルはルウェンの屋敷の前に馬をつないだまま、酒場の方へ歩いて行った。
ほとんどの店が閉まっている深夜だというのに、酒場に近づくにつれ明かりと賑わいがもれて来る。
開け放った扉には虫よけの薄布がかかっているだけで、客たちの声は筒抜けだ。
ナガルが戸口に近づくと、ふいに、食器が割れたような大きな音が響き渡った。
男の叫び声が大勢の声にかき消される。
ナガルが異変を察知して酒場に駆け込もうとした時、ちょうど出てきた男と鉢合わせになった。
男は、いきなり現れた長身のナガルに驚いたのか、虫よけの布に何かを絡ませている。それが抜き身の短剣だと気がついた時には、男は布を切り裂いて走り出していた。
「おい、待て!」
ナガルはすれ違いざまに、男の左腕をつかんだ。
男は声も上げずに短剣で切りかかって来る。
ナガルは男の腕を放して身をかわしたが、その剣はすでに誰かの血に染まっていた。
一瞬、互いににらみ合う。
ナガルが男の目元のホクロに気がついた時、店の中から声が聞こえてきた。
「ルウェン、しっかりしろ! 誰か医者を呼んで来い!」
声に気を取られた一瞬の隙に、男は走り出していた。
「待て!」
ナガルは闇の中に消えようとしている男を追いかけた。
〇 〇
「ごめんねカナン。役に立てなくてさ」
「ううん。あたしこそ、いつもハルノに頼ってばかりでごめんね」
食堂でちょうど休憩時間だったハルノを見つけ、カナンはルウェンの噂が無いか聞いたのだが、残念ながらルウェンの情報はつかめなかった。
貴族のプライドなのか、彼は下々の者が多い裏庭にはほとんど出入りしていなかったらしい。
(そう上手くはいかないか……)
カナンは食堂のテーブルに頬杖をついて、食事をするハルノをぼんやりと見つめた。
「カナン、疲れてるみたいだね」
「うん。あんまり眠れなくて」
「……シオン王子の具合が悪いって、本当だったんだね」
ハルノは声を低くしてそう言うと、さらに小声でつけ加えた。
「毒を盛られたって、本当なの?」
カナンはため息をついた。
「ここでは、いろんな噂がすぐに広まるんだね」
「そりゃあね。給仕係の子が、上司に呼ばれたまま戻ってこなかったりするからさ」
ハルノの表情にも複雑な思いが現れている。
「そっか……そうだよね」
ルウェンが犯人なら、給仕係の子は無実の罪で拘束されている事になる。
カナンは頬杖をやめて、身を起こした。
「あーあ、ここなら、ルウェンのこと知ってる人がいるかと思ったんだけどなぁ」
つい、グチをつぶやいてしまう。
「いま、ルウェンて言った?」
そう声をかけて来たのは、食器の乗ったお盆を手に歩いて来た女の子だった。王宮の侍女のお仕着せを着た、以前にもこの食堂で話したことのある人だった。
「はい……もしかして、ルウェンのお知り合いですか?」
カナンが期待を込めて聞くと、彼女はカナンの隣にお盆を置いた。
「直接の知り合いじゃないわよ。あたしの同僚の恋人だったらしいの」
そう言って、彼女は痛まし気に眉をよせる。
ハルノが表情を変えた。
「恋人だった?」
「ああ、ハルノは今朝いなかったわよね。ほら、リンって子知ってるでしょ?」
「うん。目のぱっちりした子でしょ?」
「そう。あの子の恋人がルウェンだったの。朝早くに知らせが来てね、その人が都の酒場で喧嘩相手に殺されちゃったらしいの」
「ルウェンが、殺された?」
カナンは思わず声を上げた。
「そうなのよ。あれからリンは大泣きしながら帰っちゃってさ、大変だったのよ。何でも近いうちにお金がもらえるから、結婚しようって言われてたんだって」
「そんな……」
可哀そうだが、カナンの頭にあったのはリンへの同情ではなく、手がかりを失った落胆だった。
「ごめん、あたし帰るね」
カナンは慌てて席を立った。
ルウェンという手がかりは失ったが、それでもこの事を早く長兄に知らせなくてはならない。
裏庭から王子宮へ続く小道がやけに長く感じる。このところの不摂生で体力が落ちているのかも知れない。
やっとの事で王子宮にたどり着き、三階のシオン王子の部屋へ戻ると、部屋の中には深刻な顔で話すナガルとジィンがいた。
「カナン、戻ったか。悪い知らせだ……」
「兄さまも聞いたのね。ルウェンが殺されたって」
「知っていたのか」
「酒場で喧嘩したって……」
「そうだ。おれが行ったときにはもう殺されていた。喧嘩相手の男はルウェンの顔見知りではなかったらしい。酒場の者たちも、見たことのない顔だったと言っている。だが、目元にホクロがある男だった」
「目元に、ホクロが……」
カナンは目を見張った。自分を殺そうとした覆面の男の顔が蘇る。
「おまえが言ったとおり、シオン王子に毒を盛ったのがルウェンだとすれば、ルウェンは口封じのために殺されたのだろう。彼を殺した犯人は、おまえを狙った男と同じホクロの男だ」
「ナガルの見た男が兵士の中にいないか探させているが、金で荒事を引き受ける傭兵かも知れないな」
ナガルとジィンの言葉は、シオンの毒殺を指示した黒幕までたどり着くのは難しいと告げているようだった。
〇 〇
──熱い。
燃えるように、体が熱い。
息が出来ない。苦しい。苦しいよ。
体中が痛くて、千切れてしまいそうだ。
こんなに苦しいなら、もう死んでしまいたい。
誰でもいいから、ぼくを殺して!
そう思った瞬間、急に視界が開けた。
ぼんやりとした花畑に、女の人が立っている。
「母さま!」
花畑に駆け込んだとたん、シオンの体は小さな子供に戻っていた。
もう痛みもない。
「シオン、まだ来てはだめよ。妹を一人にしないで」
ゆっくりと首をふる母に、シオンは怒りを覚えた。
「一人だったのはぼくの方だよ。父さまは体の弱い世継ぎなんか要らないんだ。ぼくが風邪をひいて寝ていても、一度も来てくれないんだ。剣を習っても乗馬を習っても、父さまは一度も褒めてくれたことがないんだ。それどころか、何でこんなに出来ないんだと怒りだすんだよ。きっと父さまは……ぼくのことが嫌いなんだ!」
不平不満と淋しさが、子供の口から滑り出す。
「仕方のない父さまね。それでもだめよ。あの場所に、妹を一人で残してはいけないわ。あの子はわたしに似て怖いもの知らずだから……何をしでかすか」
母は困ったようにため息をつく。
「そうだね。ぼくが死んだら、カナンはきっと犯人を捜すだろう。自分だって命を狙われたのに、それでもきっと犯人を捜すよね」
子供だった体が少しずつ大きくなってゆく。
「シオン、あなたはどうなの? 顔も知らない相手に、殺されても構わないの?」
「そうだね、それは嫌だよ」
「ならば戻りなさい。あなたの居るべき場所に」
花畑が急速に遠くなって消えてゆく。
目が覚めるとそこは、薄暗い自分の部屋の寝台の上だった。
たぶん夜明け前なのだろう。薄青い空がカーテンのすき間から見える。
体中が汗で湿っていて気持ちが悪かった。
身を起こそうとして、寝台にもたれて眠っているカナンに気がついた。
最後に会った時よりもさらに痩せて、顔色も悪い。
(ぼくは……どれくらい眠っていたのだろう)
きっと心配していたであろう妹のやつれた姿を見て、シオンは心の中に静かな怒りが湧いてくるのを感じていた。
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