第33話 毒
朝早く、東の宮にユイナがやって来た。
青ざめた顔で必死に懇願するユイナに警備の兵士が根負けし、ヨナに連絡してきたのだ。
朝食をとるトゥランの傍らに立っていたカナンは、部屋に入って来たユイナの姿を見て、手からお盆を落とした。
「ユイナさん!」
カナンが駆け寄ると、ユイナは苦しそうな表情を浮かべたままカナンの両腕をぎゅっとつかんだ。
「カナンさま……シオンさまが、お倒れになりました」
「えっ……?」
「昨夜、晩餐会から戻るとすぐに、意識を失いました」
「毒か?」
カナンのすぐ後ろで、トゥランの声がした。
「……はい、遅行性のものだったようです」
ユイナはトゥランに答え、目を伏せる。
「そ、それで……シオンさまの容態は?」
カナンはユイナの衣にしがみついた。
毒の恐ろしさは身に染みている。健康なカナンでもあれほど苦しみ、回復に時間がかかったのだ。体の弱いシオンでは命に係わるかも知れない。
「医師の話では、毒の大半は吐き出されたそうですが、昨夜から意識が戻りません。トゥランさま、どうかカナンさまを返してください。お願いいたします!」
ユイナは崩れるように床に跪いた。
カナンは振り返り、トゥランを見上げる。
「お願いします。シオンさまの所へ行かせてください!」
「いいだろう。おれも一緒に見舞わせてもらう」
〇 〇
ユイナの後について、カナンは久しぶりに王子宮の門をくぐった。
シオンのことを考えると、握りしめた両手が震えてくる。
トゥランとヨナが一緒でなかったら、いますぐ走り出してシオンの側に行きたかった。
歩きなれた回廊を通り、八角形の建物に入ると、廊下にいた使用人たちが頭を下げて廊下の端に避ける。
階段を一段上るたびに、カナンの足はぶるぶると震えた。
「どうぞ」
二人の兵に守られた王子の部屋に入ると、ジィンとナガルが蒼白な顔で待っていた。
寝室から出てきた医師と入れ替わるように、ユイナとカナン、そしてトゥランがシオンの寝室に入った。最後に入って来たジィンが、扉を閉める。
光を遮られた寝室は静かすぎて怖かった。
カナンはゆっくりと寝台に近寄った。
「シオンさま……」
いつも色白のシオンの顔は、今はまるで死人のように青白くなっている。
カナンは足の力が抜けてしまい、寝台の横に座り込んだ。
「誰が、こんな……」
床に座り込んだカナンを、トゥランが後ろから抱えあげて椅子に座らせた。
「シオンに消えて欲しい人間だろうな。おまえは誰だと思う?」
カナンは、椅子のすぐ後ろに立つトゥランを見上げた。
シオンの死を望む者がいるとしたら、それはきっと、シオンがいなくなった後に王位継承権二位になる者だろう。
「まさか……コウン王子が?」
「例え本人が知らないとしても、彼の周りにいる人間の仕業に間違いないだろう」
トゥランは平然と言ってのける。
カナンはユイナの顔を見て、次いでジィンの顔を見た。
「残念だが、それを証明する証拠はない」
ジィンは、厳しい表情をカナンに向ける。
「シオンさまの食事に、毒を盛った犯人はわかったの?」
「給仕係の下女は捕らえてある。王宮の賄い処で用意された食事を最初に毒見し、王子の近習に渡した下女だ。その者は毒見をしたのに何の症状も出ていないが、まだ口を割っていない」
「そう……ですか」
カナンは椅子から立ち上がると、トゥランを見上げた。
「お願いします。シオンさまが良くなるまで、ここで看病させてください」
「いいだろう」
トゥランは即答し、静かに部屋を出て行った。
〇 〇
シオンが毒に倒れたことは公にはされていなかったが、瞬く間に王宮内に知れ渡っていた。
「晩餐会には、本物のシオンが来るとわかっていたのだろうな……」
窓辺に立ったまま中庭を見つめるトゥランの背中を、ヨナは心配そうに見つめた。
窓の外は、あの嵐の日以来の久しぶりの雨が降っている。
しとしとと降る、穏やかな雨だ。
(嫌な雨だ……)
ヨナは中庭の木の葉に視線を移した。
あの日も、こんな雨が降っていた。
十年ほど前のことだ。
トゥランの宮の女官に頼まれて、ヨナはトゥランを探しに行った。小雨の降りしきる中ようやく見つけたトゥランと共に宮へ戻ると、薄い色の衣を真っ赤な血に染めて横たわる女の人がいた。
ヨナはすぐに放り出されたが、後からトゥランの母が亡くなったのだと聞かされた。
あの頃のヨナは八つになるかどうかの子供だった。もう女の人の顔も覚えていない。ただ、雨に濡れたまま両手をぎゅっと握りしめて、泣きもせずにじっと立ちつくしていたトゥランの姿だけは覚えている。
「トゥランさま、お茶を淹れました。酒が良ければお持ちしますが」
窓辺に佇むトゥランに声をかけると、トゥランがふて腐れたように振り返った。
「気を遣うな馬鹿め」
「ですが……」
「もうすぐだ。すべて終われば、
その言葉で、ヨナはトゥランの気持ちを確信した。
彼はもう、本気でこの国を利用しようとは思っていないのだろう。
「……はい」
〇 〇
シオン王子の容態は数日たっても変わらず、なかなか意識は戻らなかった。
「兄さん、カナンはまだシオン王子の部屋なの?」
王子宮の廊下で、サウォルがナガルに声をかけてきた。
もう夜もだいぶ更けている。
ナガルは立ち止まり、険しい顔で弟にうなずく。
「もうずっとじゃないか。食事もろくに取らないで、夜だってつきっきりだ。あれじゃカナンが倒れてしまうよ」
「わかってる……」
「わかってないよ。カナンはおれたちの妹だ。カナンを捨てたやつらに、ここまで義理立てする必要はないだろ?」
サウォルは熱くなっている。
ナガルは黙って口元に人差し指を立てた。
「カナンにとってはシオン王子も、おれたちと同じ兄なんだ」
「ナガル兄……」
「サウォル」
ナガルは弟の肩に手をかけると、ぐっとつかんだ。
「今度カナンが眠ったら、部屋に連れて帰る。だから、今はカナンの好きにさせてやれ」
「……わかった」
しぶしぶ頷くサウォルをなだめ、ナガルはシオン王子の部屋へ入って行く。
カナンを南に連れ帰るためにやって来たサウォルにとって、この王子宮の居心地は良くないのだろう。それはナガルにもわかっていたが、弟の心配をしてやれるほどの余裕は彼にもなかった。
サウォルに言われるまでもなく、ナガルだって心配している。
シオン王子の寝室の扉を開けるたびに顔色が悪くなってゆく妹が、王子の命と同じくらい気がかりだった。
「兄さま?」
薄暗い部屋の中からカナンの声がした。
「ああ。シオンさまの様子はどうだ?」
部屋の中に進むと、寝台の横に膝をついているカナンの姿が浮かび上がった。
「まだ、一度も目覚めないの」
ナガルはシオンの寝顔に目を向けてから、カナンを見下ろした。
頬にそっと触れる。
「おまえ、シオンさまと同じくらい顔色が悪いぞ。ちゃんと食事は取っているのか?」
「ちゃんと食べてるわ」
「おまえがこんな顔色では、シオンさまが目覚めた時びっくりなさるぞ」
「大丈夫よ。そんな事より、給仕係の下女はまだ口を割らないのでしょう?」
末っ子で甘えたがりのカナンとは思えぬような、鋭い口調だった。
「ああ……」
「シオンさまと一緒に倒れた近習の人は、どうなったの?」
「彼はもう回復した。口にした量が少なかったからだろう。今は里に戻っているはずだ」
「里に? その人は、怪しくないの?」
「えっ?」
ナガルは驚いてカナンを見つめた。
疲れた顔はしているが、カナンはしっかりとした目でナガルを見返している。
「調べてみた?」
「いや、調べてはいないはずだ。……夜が明けたら、里に使いをやろう」
「お願い。役に立つかわからないけど、あたしもハルノの所に噂話を聞きに行ってみる」
カナンの目に怯えの色はない。
自分が狙われた後は、早く南へ帰りたいと泣き言を言うほど怯えていたのに。
「カナン……いや、何でもない」
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ナガルは王子の部屋を退出し、そのままジィンの部屋に向かった。
扉を叩くと、ジィンはすぐに扉を開けてくれた。
「夜分に申し訳ありません。ルウェンの里を知りたいのですが、彼はこの王都出身ですか?」
「ああ、そうだ。城下に屋敷がある。商人街に近い辺りだが、いったいどうしたんだ?」
「少し気になることがあって、これからルウェンの屋敷を訪ねてみます。帰ったら報告します」
急いで出て行くナガルを、ジィンは不思議そうな顔で見送った。
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