第25話 風雪の中で


『────トゥラン皇子は蘭夏ランシァの元王女と婚約したぞ』


 ゾリグの言葉の意味を理解するまで、しばらくかかった。

 三対の瞳に見つめられて、その瞳に込められた憐憫の眼差しに気がついて、カナンはようやく、ああそうなのか、と思うに至った。

 それでもまだ頭の中は真っ白で、感情を表に出すことまでは出来なかった。


 カナンは感情の抜け落ちた頭でトゥランの事を考えた。

 彼の行動の意味を。


「そっか……トゥラン皇子は、蘭夏の王女様と婚約したんだ」


 言葉を返すまでどれくらいの時間が経ったのだろう。三対の瞳は変わらず苦渋の色を浮かべている。サラーナは泣きそうに顔を歪めている。


「トゥラン皇子は……目的の為なら手段を選ばない人だから、彼がその人との結婚が必要だと考えたのなら、きっとそうするのが一番なんだよ」


 少年ケイル姿であったことはカナンにとって幸いだった。まるで他人事のように考え、答えることが出来る。淡々と、悪い事など何も起きていないと。


「カナン! どうしてそんなっ、平気な振りをするの? 皇太子宮にいた時、言葉を交わすあなた達は、ただの知り合いとは思えないほど親密だったわ! トゥラン皇子がカナンの事を大切に思ってることは、何も知らない私にもわかるほどだった!」


 淡々としたカナンの様子が、逆に痛々しく映ったのだろうか。

 カナンが感情を押し殺したままでいることを、サラーナは許してくれなかった。


「サラーナさん……」


 押し殺していたはずの感情が揺らめいて、カナンはクシャリと顔を歪めた。


「でもね…………あたしが初めてトゥラン皇子に会った時、彼の目的は仇討ちだったの。幼い頃に、皇帝の寵姫だったお母さんを皇后の手の者に毒殺されて、トゥラン皇子はいつか皇后を殺して仇を討つと決めてたのよ。水龍国スールンに来たのも、逃げ込む場所を探してのことだった。その計画はすいぶん変わったみたいだけど、属領を解放したいと思って動いている今も、トゥラン皇子の行動の根っこには、お母さんの仇を討ちたいっていう気持ちがあると思う。だから、あたしは……トゥラン皇子の邪魔はしたくないの」


「カナン……」


 サラーナの顔が悲しみに染まるのを見て、カナンは耐え切れずに席を立った。


「ごめんなさい。少しだけ席を外して良い?」

「も、もちろん」


 頷くサラーナとゾリグに向かって軽く会釈したあと、カナンは立ち上がりかけたキースに首を振った。


「キースは、話しを進めておいて」


 それだけ言うと、カナンは逃げるように部屋を後にした。

 来た時に通った廊下を戻り、うろ覚えの記憶をたどって階段を降りる。

 目的の場所がある訳ではなかったけれど、どこでもいいから外の風に当たりたかった。


(トゥラン皇子が……婚約した)


 ゾリグの言葉を聞いてから、カナンの頭には、トゥランと過ごした南部での日々が浮かんでは消えていった。楽しかった記憶のはずなのに、あの時は何とも思わなかった彼の言葉が、別の意味を持っていたように思えてくるのだ。


『俺がカナンに求婚するのはまだ先の話だ』

『かりそめの婚約者として────』


 トゥランは、未来を約束するような言葉は使わなかった。

 カナンのことを好いてくれたことは本当だったとしても、カナンが心を打ち明けた後も、彼は何の約束も交わそうとしなかった。


(あたしは、なんて自惚れていたんだろう……)


 彼の心は揺るがないと、心のどこかで思っていた。

 彼の幼い頃からの大願に比べたら、カナンとの関係など泡のごとき儚さだというのに────。


(蘭夏の王女様……どんな人なんだろう?)


 月紫国ユンシィへ旅した時、行きも帰りも蘭夏に立ち寄ったが、旧王族と挨拶を交わす機会はなかった。


(きれいな人なんだろうな……)


 廊下に吹き込む粉雪に誘われるようにして、カナンは中庭へ出て行った。

 中央にある四角い水盤を見下ろせば、薄っすらと凍った水面に薄汚れた少年の姿が映っていた。


「…………本当に、男の子みたい」


 カナンの口からこぼれた苦い息を、冷たい風雪がさらっていった。



 〇     〇



 雪まじりの枯野を二頭の馬が走っている。

 無言で馬を駆るトゥランに、ヨナは我慢できずに馬を並走させた。


「カナン様に会って、何を話すおつもりですか? まさか『俺は婚約したけどおまえが婚約するのは許せない』とでも言うつもりですか? そんな虫のいい話は通用しませんよ。そんなに怒るのなら、なぜ南部にいた時に婚約してしまわなかったんです? あの方の両親だって反対はしなかったでしょうに」


 トゥランが急に手綱を引いた。

 ヨナも慌てて手綱を引いたが、一瞬遅れたせいで一馬身ほどヨナの方が前に出てしまった。

 うっすらと雪を被った枯れ草の草原。その彼方に、石の都が微かに見える。

 粉雪まじりの風が、ヒューと音を立てて耳元を通り過ぎていった。


「俺は……この先どうなるかわからない。大それた目標を掲げ、それを成し遂げる前に命が尽きるかも知れない。そんな先の見えない俺に、おまえはカナンを縛りつけろと言うのか?」


「先が見えないのは皆同じです。皇帝でも、一介の農夫でも」


「だがっ!」


「縛りつけるのが嫌? ならどうして、あなたは風草ファンユンへ向かっているのですか? あの方の婚約話を聞いて問いただそうとしているんじゃないですか? 縛りつけているのとどこが違うんですか? もう一度お聞きしますが、あの方に会って何を言うつもりなのですか?」


「………………」


「行動には責任が伴います。今さら遅いですが、あなたは風草へ来るべきではなかった。全てが整うまでは、あの方に会うべきじゃない。それに、少しはあなたの婚約者シリン姫のことも考えて差し上げてください!」


 ヨナが振り返った後方には、街道を走る馬車の影がうっすらと見えていた。


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