第2話 山越えの旅
北へ進むほど空気が冷たくなった。
春とは言え、北の街道を囲む急峻な山々はまだ白い雪を戴いている。
「シオンさま、寒くない?」
馬車の中、カナンは向かいに座るシオンに声をかけた。王女の衣を着た彼は寒そうに縮こまっている。
馬車は風は防げるが、冷たい外気までは防げない。温かな服を着て、毛皮の敷物や毛織物の膝掛けで寒さを凌ぐしかない。
南部育ちのカナンは寒さには弱いが健康だ。つい一年前まで寝室から離れられなかったシオンに比べれば体力もある。
「大丈夫だよ。カナンは心配し過ぎ。僕はもう、一年前の僕じゃないんだよ」
シオンは不満げに頬を膨らませるが、顔色の悪さは否めない。
「次の休憩で
カナンの隣でユイナが冷たくなった温石を手に取る。
王子宮の侍女長でありシオンの乳母でもある彼女は、当然のように今回の
今回の使節団は、
護衛の武官たちは宮の外に寝泊まりすることになるだろう。
今回シオンがこんな暴挙に出たのは、皇太子の宮に滞在することになるカナンの身の安全と貞操を危惧したからだという。しかしカナンにしてみれば、女たちだけでシオンを守らなければならないのは大問題だ。男兄弟の中で育ったカナンは武術の心得はあるが、残念ながら武官に対抗できるほどの技量はない。
シオンの月紫国行きを、なぜ水龍王は許可したのだろう。シオンがカナン王女のふりをすれば皇太子を騙すことになり、月紫国を愚弄することになる。当然、
(みんなどうかしてるわ。ま、あたしもだけど)
カナンは、シオンとユイナのやり取りをぼんやり見つめながら、小さく肩をすくめた。
誰にも言ってはいないが、カナンにはもう一つ心配事がある。月紫国の皇宮に行けば、トゥラン皇子に会うかも知れない。
一年前、カナンが彼の求婚を断ったのは周知の事実だ。でも、彼が帰国前に会いに来て、カナンの唇を奪った事などは、誰にも話していない。トゥラン本人が忘れていればいいのだが、彼のことは全く予想ができない。
(トゥラン皇子なら、あたしとシオンさまの入れ替わりに気づくわよね。嫌だなぁ。どこか遠くに出かけてると良いのだけど……)
もう二度と会う事はないと思っていたから、ずいぶん無礼な別れ方をしてしまった。
カナンは複雑な気持ちで窓の外を見つめた。
街道と並行している川は流れが速い。今の時期は、天白山脈から流れ出る雪解け水により一年で一番水量が増える時期だ。
日の光を受けてキラキラと輝く豊富な水が、国境を超えた途端に消えて砂漠になると言うのだからとても不思議だ。
カナンは一度も国を出たことがない。旅に出てみたいと思ったことはあるが、こんな事でもなければ国を出て旅する事など一生なかっただろう。だから異国を見るのは楽しみだ。目的地が月紫国でさえなければ、もっと純粋に旅を楽しめただろう。
(コウン王子め! まったく、余計なことをしてくれたものだわ!)
カナンはコウンに怒りを向けることで、何とか気持ちを静めるのだった。
〇 〇
北の領主館を出て二日目の夕刻、国境の砦に到着した。
どこに間諜が潜んでいるかわからないので、シオンはカナン王女のふりをして侍女に囲まれながら砦の居室に入った。
「そろそろ呼び名を変えた方がいいんじゃない?」
国境の砦を抜ければ、そこはもう砂漠の国
「そうですね。とくにカナン王女さまは、間違って僕と言わないようにしなければいけませんね」
「……わかっているよ」
ユイナの指摘に、シオンはやれやれと言うように息を吐いた。
この日の夜、カナンはシオンと同じ部屋で眠った。国境の砦は部屋数が少なく、護衛の武官たちも兵舎で雑魚寝を余儀なくされていたからだ。とはいえ、国境を超える前夜であったせいか二人とも興奮してなかなか眠れなかった。
「こんな時だけど、カナンと一緒に旅が出来るのはちょっと嬉しいんだ。この僕が国を出て見たことのない異国へ行けるなんて、一年前には考えられなかった事だよ」
「あたしも。本当はちょっとワクワクしてるの。この砦の向こうはもう砂漠の国蘭夏よ。その北にある草原の国
普段は意識的に敬語を使うようにしているカナンも、夢見るように語る今はいつもの口調になっている。それが嬉しくて、シオンは口元をほころばせた。
「本当にそうだね。僕はカナンと一緒なら、どこにいても幸せなんだ」
シオンはそっと手を伸ばして、自分よりもやや小ぶりなカナンの手を握りしめた。さっきまで浮かべていた笑みは消え、心配そうに眉をひそめている。
「ねぇカナン。南部の暮らしはどう? 王都に来るまでと変わりはない?」
「どうしたの? あたしは変わらず楽しく暮らしているわ。シオンさまこそ、王位継承権を放棄してから、誰かに意地悪されたりしてない?」
カナンが訊き返すと、シオンは苦笑した。
「僕はもともと、誰からも王子扱いされてなかったからね。病弱だった頃と変わりないよ」
「そう。ならいいけど……」
「でもカナンは違うでしょ? 南部の貴族たちにも、もうカナンが王女だって知られてる。今までとは違う意図を持って、カナンに近づいてくる人がいるんじゃない? ジィンが言ってたんだ。カナンと結婚して王家に近づこうという人は必ずいるって」
「へぇ、ジィンさまが? まぁ、そうね。確かに王都から戻ってから、急に縁談話が増えたわ。でも、父さまや兄さまたちが断ってくれてる。成人するまでは誰とも婚約させないって」
カナンはへへっと思い出し笑いをしたが、シオンはさらに深刻そうに顔を歪めた。
「やっぱりそうだったんだ」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あたしはもともと貴族同士の付き合いはしてこなかったし、急に近づいて来る人に気を許したりしないわ」
「もちろん、カナンはきっと上手くやると思ってるよ。でも、きみにだって逆らえない相手はいるだろう? 例えば、僕の代わりに王太子になる予定のユジン王子。彼の妃に望まれたら、きみの義父上では断れないよ。それにね……僕は今でもカナンが月紫国へ行くのは反対なんだ。あの国には皇太子だけじゃなくて、トゥラン皇子も居るからね」
ドキッと、カナンの心臓が飛び跳ねた。
さすが双子の兄だ。カナンの心配事に気づいている。
「あの人は……カナンのことを諦めてない気がするんだ。きみの前で、あの人がどんな風に振舞っていたのか僕は知らないけど、あの人は恐い人だよ。自分の望みを叶える為ならどんな事でもする。その為の知力も行動力も持っている。そんな人が、カナンを諦めるかな?」
「ちょ、ちょっと待って!」
カナンは寝台から飛び起きた。シオンももぞもぞと起き上がり、愁いを帯びた瞳をカナンに向けて来る。
「カナンは心配じゃないの? 僕はこの一年の間、トゥラン皇子が予告も無くカナンの元へ訪れるんじゃないかとずっと心配していたんだよ」
シオンは、カナン自身よりもずっとトゥランを警戒していたらしい。
「さすがに……それはないでしょ? 彼は外交で忙しいらしいし、あたしの事なんかとっくに忘れているんじゃないかしら?」
カナンが希望的観測を口にすると、シオンは真面目な顔で首を振った。
「そうは思えないよ。それに、これは僕だけの考えじゃないんだ。ジィンも同じことを心配していたもの」
「また、ジィンさま?」
カナンは首を傾げた。会った時からケンカ腰でカナンを馬鹿にしていたジィンとは、今でも反りが合わない。そのジィンがカナンの心配をするなんて、天地がひっくり返っても有り得ないことだった。
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