第36話 小島での再会


 トゥラン達があばら家の会談場所に入ってから、ずいぶん時間が過ぎた。

 一瞬だけ、会場からどよめくような声が波動のように聞こえてきたが、その後はまた静かになってしまった。


 高かった陽ざしは、もうだいぶ低くなっている。春が近いからまだ明るいが、日が暮れるまでに戻るつもりなら、そろそろ動き出さなければならないだろう。

 もしかしたら、トゥランと会って言葉を交わす時間はないかも知れない。カナンがハラハラしながら待っていると、ようやく扉が開いた。


 キースに続いて、トゥランとヨナが姿を現す。


(トゥラン皇子……)


 カナンの目は、黒い外套を身に纏ったトゥランの姿に吸い寄せられた。

 キースに何事か囁かれて、トゥランがこちらを向く。

 視線が絡まった瞬間、カナンの胸がドキンと波打った。


 ずっとずっと会いたかった人が、こちらに向かって歩いて来る。けれど、これから彼が会うのはカナンではなくケイルなのだ。

 会談を終えたシムルの男たちが続々と建物から出て来て、興味深げな視線をこちらに向けている。


(僕はケイル。トゥラン皇子とは親しくない。気安く声をかけてはダメだ)


 心を落ち着けなければ。そう思うほど、甘さの入り混じった痛みが胸に広がって、カナンは思わず胸を押さえた。

 直前まで見つめ合っていた眼差しは、トゥランが立ち止まると共に逸らされた。


「元気そうだなトール。そっちの、弟も」


 改めて、トゥランがカナンを見つめる。


「トゥラン皇子もお元気そうで何よりです。あっ、こいつは弟のケイルです」


 トールがカナンの肩に手を乗せ、少しだけ前に押しやる。


「ケイルか……そうか。実は、お前たちに伝えたいことがある。兄のナガルは、まだシオン王子の側近だったな? 彼に言付ことづけを頼みたい。

 月紫国ユンシィ皇帝は水龍国スールン侵攻を考えている。春か夏には侵攻を開始するつもりだ。その指揮官には……俺が任命されている」


 息を詰めて聞いていたカナンがハッと息を呑む。

 それを横目で見たトールが口を開いた。


「トゥラン皇子が、指揮官に?」


「そうだ。水龍国攻略の拠点は、国境を接する蘭夏ランシァだ。そのために皇帝は、俺と蘭夏領主の娘を婚約させた。だが、俺は水龍国に侵攻するつもりはない。皇帝から水龍国攻略の命が下るよりも先に、属国が一斉蜂起することになるだろう。風草ファンユンで知らせることが出来ず、すまなかった」


 トゥランはそう言って少しだけ頭を下げた。


(月紫国の皇帝が……トゥラン皇子を、婚約させた?)


 水龍国攻略の情報よりも、カナンはその言葉に動揺していた。


(トゥラン皇子が、属領掌握の為に婚約したんじゃ、なかったんだ)


 カナンは、自分が思い違いをしていたことに気がついた。

 だからといって何かが変わる訳ではない。ただ、トゥラン自身がシリンとの婚約を望んだのではないと知って、カナンの心はほんの少しだけ軽くなった。


 皇帝から水龍国の攻略とシリン姫との婚約を命じられた時、トゥランはきっと、カナンの事を考えて葛藤してくれたのだろう。

 水龍国のことを心配し、わざわざ知らせに来てくれたのだ。

 それだけで、カナンは十分だった。


「トゥラン皇子様。教えて下さってありがとうございました!」


 カナンは思いを込めて頭を下げた。

 顔を上げると、トゥランはまだカナンを見つめていた。眉を寄せたままふっと笑みを浮かべた彼は、少しだけ悲しそうに見えた。


(いつもみたいに、自信たっぷりな顔をしてくれればいいのに……)


 もう二度と会えないかも知れない。

 だから、本当はもっと顔を見ていたかった。でも、悲し気なトゥランの表情に胸が詰まって、カナンは目を伏せてしまった。

 これ以上彼の顔を見ていたら、涙がこぼれてしまいそうだ。


「────もしも、水龍国の王子と王女に会ったら、よろしく伝えてくれ。月紫国と属領の戦いが収束したら、必ず会いに行くと」


 頭の上に、トゥランの言葉が降ってくる。

 顔を上げると、再びトゥランの瞳と目が合った。


「必ず、お伝えします!」


 カナンが懸命に笑顔を作って答えると、トゥランは満足そうにうなずいた。


 ほんのわずかな再会。立ち話はあっという間に終わってしまった。

 トゥランはヨナに促されて自分の船に足を向け、そのまま振り返ることもなく乗り込んでしまった。


「ケイル、俺たちも帰ろう」

「うん」


 トゥランの船から少しだけ遅れて、シムルの船も出航した。



 船の舳先に立って、夕日と共に遠ざかる船影を眺めていた時だった。


「なぁカナン……もし戦になったら、水龍国はどうなると思う?」


 突然、背後から聞こえたトールの声に、カナンはびくっと肩を揺らした。


「戦って、月紫国と水龍国の?」


「いや、そうじゃないよ。月紫国と属領の戦。皇帝はさ、支配してると思ってた属領に背かれるわけだろ? 他に頼るところがなければ、水龍国に援軍を要請するんじゃないかな?」


「あ……」


 思いがけないことを指摘されて、カナンは口を開けたままみるみる青ざめていった。

 トールの言う通り、皇帝が水龍国に援軍要請をしてくる可能性は十分ある。


「もしそうなったら、王さまは、どうするだろう?」

「さぁな。援軍を出せば、当然蘭夏ランシァとぶつかるよな?」

「……そう、だよね」


 カナンは生まれて初めて、自分が捨てられた王女であることを悔やんだ。

 王家の血は引いていても地方貴族の娘でいることを望んだ今のカナンには、王に会うことすら簡単ではない。自由と引き換えに、王女としての権利を捨てたからだ。

 カナンには、トゥランの味方になって欲しいと王に懇願する機会すら無いのだ。


(あ、でも────)


 例えば、水龍国が援軍要請に応えなかったらどうなるだろう。

 もちろん、トゥランたち属領側が破れれば、援軍を出さなかった水龍国は、皇帝から相応の罰を与えられる。

 けれど、トゥランの言葉が本当なら、皇帝は水龍国を侵攻するつもりだったのだ。

 どちらにしても攻められる事になるなら、すこしでも可能性がある方に賭けてみるべきではないだろうか。国を治める王ならば、当然そう考えるはずだ。


「トール兄! 水龍国へ帰らなきゃ! 王様に〝何もしない〟ようにお願いしてみるのっ!」


 はやる心のまま、カナンはトールの手をガシッとつかんで振り回した。


  

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