第15話 仇の息子
「トゥラン。私では、カナン王女を守ることは出来ない」
ユーランは池の畔で立ち止まるなり、前を見据えたままそう言った。
「わざわざ私の宮まで足を運んだそなただ。まだカナン王女に想いが残っているのだろう? そなたが助けてやれ」
「……へぇ。驚いたな」
トゥランは口端を歪めた。
新鮮な驚きがトゥランの胸を吹き抜けてゆく。
むろん、今回もあのときと同じく彼自身は「何も出来ない」のだろう。本人が言っているのだから間違いない。だが、今までの彼ならトゥランに声をかける事もなかっただろう。
トゥランの漏らした声にユーランが振り返る。
「もしも父上がカナン王女を気に入れば、彼女は永遠に後宮に閉じ込められる。帰国することは難しいだろう」
「義姉上と同じように?」
「……そうだ」
意地悪く問い返すと、ユーランは眉間に皺を寄せたまま俯いた。彼なりに己の所業を後悔していることが、その姿からは感じられた。
普段ならば、悔いるだけで何もしようとしない男にトゥランは同情しない。ただ馬鹿にするだけだ。
しかし、この日の彼は小さく嘆息すると、皮肉そうな笑みを引っ込めた。
「そなたが戻っていた事が幸いだった。私と違って、そなたには人を動かす力がある」
「ああ。それが俺の武器だからな。カナン王女の件は了解した。明日、時間を見計らって謁見しよう」
「頼む」
頷いて歩き出したユーランの肩を、トゥランは無意識につかんだ。
「どうした?」
振り返ったユーランは、怪訝そうに眉をひそめている。
「いや……兄上は……義姉上のことをどう思っているんだ?」
ユーランとその正妃は幼馴染だと聞いていた。兄妹のように育ち、幼いうちに婚姻を結んだのだと。
誰の目にも微笑ましく映っていた年若い夫婦に悲劇が起きたと聞いたとき、トゥランは嗤っただけだった。自分の大切な者さえ守れない奴が、この国を統べる皇太子なのか、と、ただ嘲笑った。
もしも自分なら、父親を殺してでも妻を取り戻しただろう。母を殺された幼い頃とは違う。成すすべもなく泣き寝入りするしかなかったあの頃とは違い、今の自分には戦う力がある。もう二度と、自分の大切な者を失わせはしない。
母を殺した
母という後ろ盾を失くした日から、トゥランは己の居場所を確保することに心血を注いできた。数多いる異母兄弟たちとは対立せぬよう心を砕き、少しずつ出来ることを増やした。
帝位に欲を示さぬことで早くから外交の一端を担うことになったトゥランには、皇太子との接点など一つもなかった。むろん、仇の息子だからと避けた事などない。わざわざ話をしに近づく暇などなかったし、興味もなかった。
ただ、トゥランが“あの女”を討ったとき、彼がどんな反応をするのか。興味があったのはその一点だけだ。今回の思いがけない関わりがなければ、こんな会話をする事もなかっただろう。
トゥランの問いかけに、ユーランは苦笑を返した。
「彼女のことは……後悔していないと言えば嘘になるだろう。私はいつも、勇気が足りない」
「ふぅん。終わったことのように話すんだな?」
「終わったことだ。事実、彼女は父上の後宮に居る」
「だからどうだって言うんだ? 俺には、おまえが好きでもない女を抱いて、自分の気持ちを誤魔化しているようにしか見えないぞ。それとも、父の手がついた義姉上にはもう興味はないか? 義姉上がどんな気持ちで後宮にいるか確かめもしないのはそのせいか?」
「っ……何が言いたい?」
ユーランの瞳に怒りが閃いた。が、トゥランはそれ以上の怒りを爆発させた。
「今でも義姉上を大切に思っているなら、カナン王女の心配なんかしてないで、義姉上を取り返すことを考えたらどうだ? おまえを見てるとイラつくんだよ。この先も臆病者のままで居続けるのか? それとも、義姉上と引き換えに出来ないほど皇太子の地位が大切か?」
「違う! 彼女……より、大切なものなど、ある訳がない……」
言葉とは裏腹に、ユーランの瞳は力なく彷徨いはじめる。
そんな彼を見ているうちに、トゥランは熱くなっていた自分が急に馬鹿馬鹿しくなってきた。フゥッとため息を漏らし、ユーランの肩から手を放す。
(何やってんだ俺は……下らない)
いくらイラついたとはいえ、弱気な異母兄を焚きつけて何になると言うのだ。
カナンたちの所へ戻ろうと一歩踏み出した時、今度はユーランの手がトゥランの肩をつかんだ。苦し気な低い声がすぐ近くから聞こえた。
「そなたも、私に出奔を促すのか? 妃を取り戻し、何処へなりとも逃げろと言うのか?」
「俺は別に────」
「昨日の侍女もそう言った。嫌なら、この鳥籠から逃げ出せばいいと!」
「は? あいつがか?」
「そうだ。丈夫な翼を持つそなたたちと違い、私の羽は折れ曲がっているのに。いとも簡単に逃げ出せと……」
「折れ曲がっているなら伸ばせよ。切り落とされたら新たな羽を生やせばいい! 大事なのは、自分が〝どう生きたいか〟だろう? 俺にはおまえの考えの方が理解できないね!」
ヤケクソに言い放つと、ユーランはその秀麗な顔を歪ませて笑みを浮かべた。
「そなたたちは似ているのだな。私にその勇気のひとかけらでもあれば」
クソっと呟いて、トゥランは空を仰いだ。
「……まずは義姉上と連絡を取れ。信頼のおける人間がいないのなら貸してやる」
口から飛び出した言葉とは裏腹に、なぜ自分がこんなことをしなくちゃいけないんだ、ともう一人の自分が叫んでいる。しかし、トゥランはあえてその叫びを無視した。
「そなたは……母上がそなたの母にした所業を知っていて、私に手を差し伸べるのか? それとも、私を出奔させ、その後釜に収まるつもりか? そなたでは無理だ。父上は己に従う愚かな皇太子しか望んでおらぬのだぞ」
瞳に自嘲の色を纏いユーランは口端を歪めた。
自分を愚かだと言い切る彼は苦しそうに眉を震わせている。誰もが慕い敬う皇太子のくせに、その姿はやはり哀れだった。
「────父上のことくらいわかってるさ。俺はべつに、おまえの後釜を狙っている訳じゃない。……今はな」
「なるほど。皇子たちを競わせて、自分は高みの見物か? そなたらしいな」
顔を上げたユーランは苦笑していた。が、すぐに表情を引き締め、顎に手をかけて何事か思案をはじめる。
「では……そなたの言葉に甘えても、私に害はないという事か」
「言っておくが、これは貸しだ。いつか返してもらうぞ」
「わかっているよ」
二人は一瞬だけ複雑な視線を交わすと、並んで歩き出した。
東屋の前には
ユーランはそんな一同を見回してから、カナンを見つめた。
「我が国の皇帝陛下のことは、すでに聞き及んでいるかも知れないが、明日の謁見で陛下の目に止まれば、この宮に戻って来ることは難しいだろう。カナン王女はもちろん、付き添いの侍女であってもそれは同じだ。無事に国へ帰りたければ、陛下の目に止まらぬように行動いたせ」
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