第16話 謁見
混乱の内に日が沈み、そして夜が明けた。
皇太子宮の外門で迎えの馬車に乗り込んだのは、陽がだいぶ高くなってからだった。
馬車に乗ったのは皇太子ユーランと
「眠れなかったのか?」
隣に並んだナガルが、心配そうにカナンの頭に手をのせる。
カナンは訴えるようにナガルを見上げた。その目は赤く充血している。
「だって……」
続く言葉が出て来なくて、カナンは唇を噛んだ。
万が一、皇帝の前でシオンの正体がバレたらどうしよう。彼の命は即座に消え、水龍国も無残に踏みにじられるだろう。そんな事態を避けたくて、カナンは自分が王女として謁見に向かうと言ったのに、シオンだけでなく、ジィンやナガルたちにまで反対されたのだ。
「大丈夫だ。一国の王女にいきなり無体な真似はしないだろう。あるとすれば二度目だ。その危険を回避するためには、おまえよりもあの方が適任だ」
「でも……」
カナンだってわかっている。みんなは自分を守るためにいろいろ考えてくれている。けれど、自分のことなのに何の役にも立っていない自分が、カナンは情けなくて仕方ない。
「大丈夫だ」
もう一度降って来たナガルの言葉に、カナンは頷くしかなかった。
石畳の広場の向こうに、巨大な白壁の建物が現れた。皇宮の中心、正殿だ。
横長の四角い建物には大きな窓が幾つか見えるが、あまりに大きいため、朱色の屋根は下からでは見えなかった。
馬車から下りたユーランを先頭に、一行は幅広の石段を上がる。正殿の中央にある兵士に守られた扉の先は、まるで白壁の坑道のようだった。
ここは正殿に入るための検問なのだ。騎士たちは武器をすべてここに預けなければならず、皇太子以外には身体検査もあった。騎士たちは兵士によって。カナン王女と侍女たちは正殿の女官によって、隠し武器を持っていないか検査された。
水龍国の者たちは緊張に体を強張らせたが、女官による身体検査は甘く、カナン王女の秘密が見破られることはなかった。
白壁の坑道を潜り抜けると、そこは中庭になっていた。
今まで正殿だと思っていたものは、正殿の四方を囲む細長い建物だったらしく、中庭の奥には一回り小さな建物が建っていた。
一行は無言のまま正殿へ向かった。身体検査を終えてホッとしたせいか、カナンは辺りを見回す心の余裕がでてきた。
先頭を歩くユーランは、心なしか緊張しているように見える。
皇太子宮の侍女の列にいるサラーナも、ユーランに負けないほど張りつめた表情をしている。
皇宮にいる者たちがこれほど恐れる皇帝とは、一体どんな人物なのだろう。
(気を引きしめなくちゃ。よけいな事をしてはだめ。でも……シオンさまを守る為なら何でもする!)
拳を握りしめて心に誓っていると、まるでカナンの心の声が聞こえたかのように、シオンがチラリと振り返った。
(大丈夫!)
思いを込めて頷くと、シオンが頷き返してくれた。
今日のシオンは立て襟の白い上着に、ひだの沢山ある足首までの桃色のスカートをはいている。その襟元でひときわ存在感を放っているのは、昨日トゥランから贈られた紅珊瑚の首飾りだ。これはトゥランとの関係が、皇帝への牽制に役立つと判断したユイナによって採用された。
再び前を向いて歩き出したシオンの背中を見つめながら、カナンは正殿の扉をくぐった。
「皇太子殿下、並びに水龍国王女カナン様のおなりでございます」
到着を告げる声が広間に朗々と響き渡る。
広間の天井は高く、高窓からは柔らかな日差しが降り注いでいる。
壁際に等間隔に並ぶ武人がいるほかは、思ったよりも人は少なくガランとしている。人の気配があるのは正面の一段高くなった場所だけだ。
一段高い場所には玉座があった。中央にあるのはゆったりとした幅の広い椅子で、その左右にはそれよりも小さい椅子がある。一方は皇后の玉座だろうが、もう一つはわからない。
カナンはそれぞれの椅子に座る人影を、目を凝らして見つめた。
玉座に近づくにつれ、椅子に座る人物の姿がはっきりと見えてくる。
中央の玉座に座るのは、ゆったりと足を組みひじ掛けに頬杖をついた男だ。後ろに撫でつけた艶やかな黒髪を首の後ろで束ねている。細面の顔は色白で、山羊のように長い顎鬚がある。ただ、笑っているように細められた目は酷薄そうだった。
(これが……皇帝)
近隣諸国をすべて平らげ、一つの帝国にした人物。もちろん彼一人の功績ではなく、代々の皇帝が少しずつ成し得たことなのだろう。だが、十一年前の
(────この男が?)
カナンは、酷く落ち着いている自分に気がついた。
皇帝を目の前にしたら、恐ろしくて震えが走るのではないかと思っていたのに、胸に広がるのは意味の分からない違和感だけだった。
(何だろう? 恐ろしいというより、なんか……気味が悪い)
一年前、実の父である水龍王に初めて対面したときに感じた、心が凍てつきそうなほどの冷厳さ。あれが至極まっとうに思えてくる。
カナンは違和感を振り切るように、視線を隣に移した。
皇帝の右隣にいるのはおそらく皇后だ。彼女は皇太子によく似ている。年は取っているがまだ十分に美しい。その白皙の美貌はさぞや宮中を騒がせたことだろう。ただ、広げた扇で口元を隠す彼女は明らかに退屈そうだ。
皇帝の左隣には若い女が座っていた。彼女は初めから俯いたままで、こちらを見ようともしない。皇帝に怯えているのか、それとも目の前の者たちを見たくないのか、誰も居ない左側へわずかに体をひねっている。
(あの人は……)
カナンは素早くユーランの背中に目を向けた。必死に平静を装っているが、握った拳がわずかに震えている。それを見てわかった。彼女はおそらくユーランの正妻だ。皇帝はまるで彼に見せつけるように彼女を隣に侍らせている。
(なんて悪趣味な!)
カナンが憤った目で再び皇帝に目を向けた時、彼が口を開いた。
「ようこそ水龍の王女。皇太子が直々に呼び寄せた姫がいると聞いて、ぜひとも会いたくなってな」
ちらり、と皇帝はユーランに視線を向ける。その眼差しに含まれた嘲りに、カナンは愕然とした。
「カナンと申します。お目にかかれて光栄です」
抑えた口調でシオンが堂々と挨拶をする。優雅に腰を折る彼に倣って、カナンたちも頭を下げた。
顔を上げながらふと横に目を向けると、青ざめたサラーナの顔が目に入った。
(サラーナさん……どうしたんだろう?)
具合が悪いのだろうか。
ただの緊張とは思えないほど、彼女の顔は強張っていた。
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