第17話 遠い日々
ドクッ、と鼓動が跳ねた。
苦しいのに、うまく息が吸えない。
普段どうやって呼吸をしていたのか、それすら思い出せない。
皇帝の顔を見たとたん、サラーナは平常心を失っていた。
胸に湧きおこるのは純粋な怒り。それとも絶望だろうか。
(もうすぐ、そばへ……行くから─────ゾリグ)
幸せだった日々が
夏の高原────。
一族の
アルタン族で一番高貴な娘サラーナと、ナイダン族で一番高貴な青年ゾリグが出会ったのは、年に一度行われる五部族対抗の馬術試合だった。
一族の若者たちと一緒に試合に出場したサラーナは、手綱を使わず足だけで馬を御す「手放し」や「立ち乗り」を勝ち進み、最後の「早駆け」に挑んだ。
先頭を疾駆するサラーナと馬首を並べたのは、大きな黒馬に乗った大柄な男だった。長駆に体重の重い男は不利だと言うのに、その男の馬はサラーナの馬を追い越そうとしている。
馬上で、互いの目が交差する。鋭い瞳はまるで黒曜石のように輝いていた。
サラーナは負けじと手綱を握りしめた。愛馬の腹をしめ、いっそう身を低くする。
一進一退の攻防が長く続いた。
二頭の馬は、互いの息遣いが聞こえるほどすぐ近くを走っていた。
やがて、人垣が見えた。
空の青と緑の大地の間に、最終地点の黄色い旗が風に靡いて見えたとき、ふいに黒馬が下がった。
(何で?)
疑問が渦巻く中、サラーナは黄色い旗の前を駆け抜けた。
二番手で黒馬が到着したのを見て、心に芽生えたのは怒りだった。
勝ちを譲られた。女だからか。アルタン族の姫だからか。
喜び勇んで集まってきた一族の者たちに称えられながらも、サラーナの心は怒りに染まっていた。
宴会もそろそろお開きが近づく夜半、サラーナは宴の席を抜け出した。あの男を探して、せめてひと言文句を言ってやらねば気が収まらない。
こっそりナイダン族の窮廬に近寄ると、まるでサラーナが来るのを予知していたように、黒馬の手綱を手にした男が待っていた。もちろん、ただ馬の世話をしていただけかも知れない。しかしサラーナは、どうしてもそうは思えなかった。
「ナイダン族のゾリグか?」
サラーナは胸の前で両手を組んで男を見上げた。
「やっぱり来たか」
答える代わりに、ゾリグはクスッと笑った。
そのかすかな笑い声が、サラーナの怒りに火をつけた。
「何故わざと負けた? 私が女だからか? それとも、私がアルタン族の族長の娘だからか?」
「生憎だが、そのどれでもない。
「シュヌ?」
「俺の馬だ」
馬の首を優しく叩く男を、サラーナは見上げた。自分とは違って、彼は馬術大会の勝ち負けにはこだわっていない。
スッと怒りが引くと共に、羞恥心が込み上げた。
「……ならいい」
サラーナは素早く踵を返した。一刻も早くここから立ち去りたい。勝ち負けにこだわっていた自分がひどく卑小な人間に思えた。
単純に言えば恥ずかしかったのだ。
そんな思いとは裏腹に、ゾリグの伸ばした手がサラーナを引き留めた。
「わざと負けた訳ではない。それは俺の誇りにかけて誓うが……おまえが乗り込んで来るんじゃないかと、ちょっとだけ期待した」
「は?」
いつの間にかゾリグの腕に抱き寄せられて、サラーナは固まった。
「おまえは、まるで夏の草原を照らす太陽のような女だな。アルタン族の姫」
星降る夏の夜。遠い焚火の明かり。
闇に浮かぶ朱い輪郭だけの男に、サラーナは魅了された。
年に一度の馬術大会が終わると、各部族はそれぞれの放牧地へと散って行く。
離れ離れになってからも、二人は何度となく逢瀬を重ねた。
彼の鷹が姿を現すのを待ち焦がれ、見つければこっそりと窮廬を抜け出した。
そうして落ち合えば、共に草原を馬で駆け、疲れては瑞々しい草原に転がって休んだ。たくさん、たくさん話をした。
いつの間にか季節は移ろい、北の山から冷たい風が吹くようになる。
低地へ下りる日が近づいていた。
「サラーナ。俺の妻にならないか?」
いつものように草原に寝転がっていたとき、唐突にゾリグがそう言った。
抑え込まれるようにして初めて交わした熱い口づけは、サラーナの惑いを溶かし痺れさせた。
サラーナが頷くと、ゾリグはその日のうちにアルタン族を訪ね、族長に結婚の許しを請うた。族長は目を丸くして驚いたものの、反対はしなかった。
古き王族の血を引くアルタン族と、五部族一の武力を誇るナイダン族。二つの部族の結びつきに、旧
ナイダン族の中でも、部族を纏めるゾリグの手腕は抜きん出ている。その吸引力は、他部族の若者たちをも引き込むほどに。
すわ古王国の復活だと囃し立てる者が出るほど、サラーナとゾリグの婚姻は民に熱望された。
おそらく、それが引き金だったのだろう。
東の属国に頻発する賊を退治するために、兵力の増員が必要だという名目だった。
徴兵の名簿にはゾリグの名前も記されていた。
「二年だ。サラーナ。待っててくれるか?」
「あたりまえでしょ! 怪我しないで……ちゃんと、生きて帰って来てよね!」
サラーナは蔦模様の刺繍をした青い額飾りをゾリグに贈った。
二年待てば帰って来る。そう信じて疑わなかったことを、サラーナは深く後悔した。
一年後に、ゾリグの死の報が届いた。
遺体は戻らず、サラーナが贈った青い額飾りだけが戻った。届けてくれたのはゾリグと共に東の砦に配属されたナイダン族の若者だった。
「我々は賊の根城をつかみ、そこへ向かいました。しかし、その途中で襲われたのです。矢は間違いなく後方から射られていました。相手は賊ではなく、月紫国の正規軍だったのです! 我ら風草の民の王にもなれるゾリグを、月紫国が恐れ殺したのです!」
彼は叫ぶように報告した。
ゾリグは馬と共に渓谷へ落ち、木に引っかかっていた額飾りだけが回収できたのだと。
(────ゾリグ。あいつを殺して、すぐにそばに行くから)
のろのろと手を上げ、衣の合わせ目に手を差し入れる。
首に下げられた首飾りの紐を引き、サラーナは硬い木の感触を指先で確かめた。
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