第18話 弾けた首飾り
「────皇太子宮の居心地はどうだ?」
「はい。皇太子宮の皆さまには大変良くして頂いています。お借りしている離れ宮もとても美しく、供の者たちも喜んでおります」
静かな広間に、皇帝と
玉座にだらしなく頬杖をついた皇帝は、とんでもない男だ。後宮にたくさんの妃を抱えながら、自分の息子である皇太子の妃にまで手を付けた。
皇帝の目に止まれば宮に戻ることは出来ないだろう。そうユーランは言っていた。
(この男に、常識が通用すると思ってはいけないんだわ)
カナンは体の前で重ねた手をぎゅっと握りしめた。
皇帝の問いかけに、シオンは冷静に答えている。彼が浮かべる形ばかりの笑顔や、すこしも媚びようとしない姿勢を不満に思ったのか、皇帝は不機嫌そうに唇を歪めた。
「……ほぅ。そなたは、ユーランのもてなしに満足しているのだな?」
「勿論でございます」
「ではそなたも、皇太子宮の侍女たちに交じり、ユーランの後宮入りを目指すか?」
頬杖をついたまま、皇帝は笑みを浮かべた。ゾッとするような、まるで深い怨念を抱えた者が浮かべるような笑みを。
シオンは一瞬だけ息を呑んだようだったが、よどみなく言葉を続けた。
「……滅相もございません。殿下のご希望は私の話を聞くことだったとお聞きしました。すでに様々なお話をさせて頂き、明後日には国へ帰る予定でございます」
「なんと……もう帰るのか?」
皇帝は初めて頬杖をとき、玉座の中央に座りなおした。
「もう少し滞在して行ってはどうだ? 皇太子宮を出ると言うなら、我が宮の一つ貸し出しても良いぞ」
ちらり、とユーランの表情を窺うように皇帝の視線が移ろった。先ほどのような渦巻く怨念の気配は消えていたが、父親としての情などは一欠けらもない。
くるくると印象を変える皇帝に慄きながらも、カナンは眉をひそめた。
目の前にいる男が、遊び相手から気にいったおもちゃを取り上げて喜ぶ、意地悪な子供に見えたのだ。
国々を平らげ、広大な帝国の頂点に立つ者とはとても思えない。それとも、肥大化したこの国は、中枢から膿み腐ってしまったのだろうか。
「ありがたいお言葉ですが、どうかお許しください。私をはじめ、供の者たちもみな里心がついて、早く国に帰りたがっています」
シオンは堂々と断りの言葉を口にした。カナン本人よりもよほど王女らしい仕草と話し方で、怯むことなく皇帝と相対している。
(シオンさまに任せておけば大丈夫だ)
カナンはシオンの後ろ姿に勇気をもらい、意識をそっと右隣へ移した。
正殿に入る前から、サラーナの様子がずっと気になっていた。血の気を失った青白い顔は緊張に強張っていて、指先がずっと震えているのだ。
皇帝の御前で勝手に動くことは憚られる。カナンは体の向きを変えないように、慎重に視線だけを隣に向けた。
ちょうどその時だった。
カナンの視線の先で、サラーナの手がゆるゆると上がった。優雅な長い袖口を口元にあてる。気分が悪いのだろうかと、心配したのはほんの束の間だった。
彼女の手がスッと襟元に沈み、首から下げた紐を手繰り寄せるように引き出したのだ。その紐の先には、小指ほどの太さの
(────ちがう! 呼子笛じゃない、吹き矢だ!)
カナンは一年前、曲者の吹き矢によって死の縁をさまよった。あの時の刺客が持っていたのも、似たような小さな吹き矢だった。
(まさか……皇帝を暗殺するつもりじゃ)
否定したい気持ちとは裏腹に、納得している自分がいた。ユーランの後宮に入る為ではなく、サラーナは皇帝を暗殺するためにここへ来たのだ。彼女の張り詰めたまでの緊張はそのせいだったのだ。
ここで彼女が吹き矢を吹けば、暗殺の成否にかかわらず斬り捨てられてしまうだろう。
皇帝に刃を向ければ、命はない。それをわからぬサラーナではないはずだ。
間違いない。彼女は死ぬ気だ────。
(させないっ!)
後先も考えずに、カナンは衝動のまま動いた。
左手を、シオンの首の後ろへ。
プツッ────。
糸の切れた感触が指の痛みなってとどいた瞬間、紅い珠が弾け飛んだ。
パァーンと音を立てて落下した珠が、滑らかな木の床に散らばってゆく。
「ああっ、トゥラン様の紅珊瑚が! 拾ってください!」
シオンの叫び声を聞きながら、カナンは体ごとサラーナへぶつかった。胸元へ伸ばした手で呼子笛のような暗器をつかみサラーナを床へ引きずり下ろす。
『放せ!』
『だめです、サラーナさん!』
『二度とはない好機なんだ。見逃してくれ』
『だめです!』
吐息を絞るようなやり取りをしながら、カナンとサラーナは床に
その周りを、珠を追う侍女たちが右往左往する。
カナンは転がってきた紅い珠をひとつ拾うと、それをサラーナの手に押しつけた。
「────こっ……これは!」
サラーナのつぶやきは、カナンの耳には届かなかった。
カナンは蒼ざめ、震える指で紅珊瑚の珠を拾い集めた。
皇帝の面前でこのような粗相をすれば、暗殺うんぬんがなくても最悪の場合斬り捨てられる。何しろ相手は、常識が通用しない皇帝なのだ。
サラーナを止めるためとは言え、シオンや侍女たちを巻き込んだのはカナンだ。彼女たちを助けるために、何としてでもこの場を収めなければ────。
紅珊瑚の珠がすべて拾い集められ、それを侍女頭のユイナが受け取ると、シオンは皇帝に向き直った。
「陛下の御前で見苦しい振る舞いをしてしまい、申し訳ありませんでした」
頭を下げるシオンに倣い、カナンたちは一斉に頭を下げた。
顔を上げた瞬間に見えた皇帝の顔は、怒りに震えていた。
「まったくだ。そなたらは、この場を何と心得ているのだ!」
時間にしたらほんの数瞬の出来事。それでも、彼の前で首を垂れるべき者たちが、勝手に動き回ったことが許せなかったのだろう。
「────申し訳ありません父上。私からもお詫び申し上げます」
ユーランが初めて口を開いた。カナン王女を守ろうと取りなしの言葉を口にしてくれたが、皇帝は彼に見向きもしなかった。
「誠に許しがたい……衛兵! その者らを捕らえよ!」
右手を振り上げながら皇帝が立ち上がる。
彼の声が広間に響き渡ると、壁際に立っていた武人たちが音もなく動き出した。
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