第2話 王子付き武官ジィン


 翌日から、カナンの私室でジィンの指導が始まった。


「カナン、今日からおまえを王子として扱う。少しでもおかしな所があったら容赦なく指摘するから、そのつもりで」


 都人の代表のようなジィンを前にすると、カナンは緊張する。

 南の人間よりも色白で、茶色がかった黒髪はふわりと風をまとうように軽い。整った顔立ちをしている分、自分に向けられる鋭い眼差しが、何よりもカナンを嫌な気持ちにさせるのだ。


「それなら、あなたもぼくのことはシオンと呼んでください。二人だけの時は名前で呼んでいたと、ユイナから聞いています」


 王子の衣装を着て、首の後ろで髪を束ねたカナンは、窓辺に立ったまま挑むようにジィンを見つめた。


「これは驚いたな。乳母殿の特訓はかなりの成果を上げているようだ」


 ジィンは口元をゆがめるような笑みを浮かべた。


「だが、相手は月紫国ユンシィのトゥラン皇子だ。彼はわたしと同じ十八歳で、シオン王子より四つ年上だ。おまえは自分より年上の大国の皇子と、堂々と渡り合わなければならないんだぞ」


「ぼくの次兄も十八歳です。年のことよりも、大事なのはトゥラン皇子の人柄ですよね? ジィン、あなたは会ったことがあるのでしょう? どんな人なのですか?」


 カナンの問いかけに、ジィンはため息をついた。


「……二年前だ。月紫国ユンシィの皇帝が来訪した時、わたしはシオン王子についてトゥラン皇子の近くに控えていた。十六歳のトゥラン皇子は、大国の皇子にしては朗らかでヤンチャな性格のように見えた。皇帝が外交に連れ歩くのは大抵トゥラン皇子だが、皇太子は別の皇子だと聞いた事がある。」


「その時、シオンさまとトゥラン皇子はどんな話をしてましたか? シオンさまにどんな印象を持っていたと思いますか?」


「その頃から、シオン王子はあまり体調が良くなかったから、それほど長い時間一緒に過ごした訳ではない。食事の時や庭を案内した時に、お互いの国の話をしていたくらいだ。たぶん、十二歳だったシオン王子は、大人しげな王子という印象を持たれたことだろう」


「そうですか……王さまはぼくに、堂々としていれば良いとおっしゃいましたが、それだと印象が違ってしまいますね?」


「それくらい自分で考えろ!」


 ジィンは初めて声を荒げたが、カナンは冷静に彼を見返した。


「ぼくは、あなたの意見を聞いているんです。子供のころから誰よりもシオン王子のそばにいたあなたなら、どうすればぼくが王子らしく見えるかわかるでしょう?」


「……王子は、確かに口数の少ない方だが、常に気品のある振る舞いをされていた。わたしは、おまえが王子の評判を損ねないか心配でならない!」


「なるほど、よくわかりました。大人しくしている事にします」

「言っておくが、おまえのような色黒ではとても王子には見えんぞ!」

「大丈夫です。王子として外に出る時には、ユイナが化粧をしてくれることになってますから」


 にっこりと微笑むカナンに、ジィンは嫌悪感を隠そうともしなかった。


「今日の指導はここまでだ!」


 捨て台詞のように言い放ち、ジィンが部屋を出て行くと、カナンは気が抜けたように床に座り込んだ。


「何だよ、偉っそうにさぁ!」


 王子付き武官として、幼いころからシオン王子を守って来たジィンとの会話は、まるで戦いのようだった。

 けれど、本番はもっと熾烈な戦いになるだろう。トゥラン皇子を騙し通し、大国の思惑をやんわりと回避する。

 そんなことはとても出来そうに無いが、失敗したとしてもカナンにはどうでも良かった。



 〇     〇



 怒りを露わに部屋を出て行ったジィンは、廊下で茶器を持ったユイナに出くわした。


「ジィン、いまお茶を淹れようとしたのですが、もう終わったのですか?」

「母上……」

「まさか、カナンさまに失礼な態度を取ったりはしていないでしょうね?」


 ユイナがジィンを見上げて表情を曇らせる。


「母上も、あの娘に王子の代役が務まると思っているのですか? 陛下がなぜあの娘を呼び寄せたのか、わたしはずっと不思議に思っていました。あの娘が王子の実の妹だとしても、不吉な獣腹として王宮を追われた人間です。あの娘が、この国に凶事をもたらすかも知れないとは思わないのですか?」


「おだまりなさい!」


 ユイナの厳しい声が飛んだ。


「身分をわきまえなさい、ジィン。陛下のお決めになったことに異を唱えるなんて……しかも、それをこのような、誰に聞かれるかもわからないような場所で口にするなど!」


「しかし……」


「大丈夫です。カナンさまはきっと上手くおやりになります。それを助けるのがおまえの役目でしょう」


「……わかりました」

 ユイナに向かって静かに一礼すると、ジィンは無表情のまま立ち去って行った。



 〇     〇



「お茶をお持ちしました」


 扉の外から声がかけられ、茶器を持ったユイナが入って来た。

 長椅子に寝そべっていたカナンは、ゆっくりと起き上がった。


「カナンさま、ご気分でも悪いのですか?」


 円卓に茶器を置いたユイナが、心配そうな顔をする。


「いえ、少し疲れただけです」


「そうですか。そのお姿で長椅子に横になっておられると、本物のシオンさまと錯覚してしまいます」


 ホッとしたようにユイナがお茶を淹れはじめると、フワッと甘い茶葉の香りが漂ってきた。


「うーん、いい香り。高級なお茶の香りね」


 カナンが円卓に近寄って行くと、ユイナは茶を淹れた二つの器を向かい合うような位置に置いた。


「少し、お話をしてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです」


 カナンが席に座るのを待って、ユイナも静かに腰を下ろした。


「ジィンが失礼な態度を取ったようですね。わたしからお詫びを申し上げます」


 ユイナがいきなり頭を下げたので、カナンは驚いた。


「やめてください。ジィンさんは確かにちょっと怖いけど、あの人の不安はわかります。いくら姿が似ていても、あたしは南の田舎貴族の娘です。ちょっとした事でぼろを出してしまうかも知れません」


「そんな……カナンさまはこの国の王女さまです。例えシオンさまの代役が不調に終わったとしても、カナンさまを責めるような事は絶対にありません。それに、陛下がカナンさまを呼び寄せたのは、このお役目の為だけではないと思うのです」


 必死に慰めようとするユイナの顔を見て、カナンは小さく息をついた。


「……ユイナさん、あたしには兄が三人いるんです。小さい頃から兄たちに混ざって、馬に乗ったり剣術を習ったりしていました。血はつながってなくても、とても大切な兄たちです。でもね、王子さまは違うんです。例え血がつながっているのだとしても、あたしにとって王子さまは王子さまでしかありません。お役に立つよう努めますが、自分の兄と思うことは出来ません。あたしは無事にお役目を果たし、南に帰るのだけが楽しみなんです」


「そんな、カナンさま……では、では一度、シオンさまにお会いになりませんか?」


 ユイナの言葉に、カナンは目を見張った。


「王子さまは……あたしのことをご存知なのですか?」

「ええ。もちろんですとも!」


 自信に満ちたユイナの笑顔から、カナンは目が離せなかった。


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