第3話 病弱な王子


 その日の夜更け、カナンは真っ暗で狭い通路をゆっくりと歩いていた。

 前を行くユイナの持つ灯りだけが、わずかに辺りを照らしている。

 限られた者しか知らない秘密の通路は、驚いたことに、カナンに与えられた私室からつながっていた。


「このお部屋は、代々王子さまの妃となる方が使っていたお部屋なんですよ。この通路で、王子さまのお部屋とつながっています」


 ユイナは初めにそう言うと、壁の一部を開いて、カナンを暗い通路に招き入れた。

 外壁と部屋との間に作られた通路は、八角形の王子宮をなぞるように続き、やがて重い扉の前にたどり着いた。


「カナンさま、どうぞお入りください」


 ユイナが開いた重い木の扉の先には、柔らかな灯りの中にたくさんのきらびやかな衣が見える。ここはどうやら、王子の衣裳部屋のようだ。

 カナンは大きく息を吸い込むと、部屋の中に足を踏み入れた。


「王子さまのお部屋の前には警備の兵がいますが、ここを通れば彼らに知られずに王子さまの元へ行けます。カナンさまが王子さまの代役をなさる時には、今と同じように通路を通り、王子さまのお部屋から出入りすることになります」


「はい」


 ユイナについてもう一つの扉をくぐると、もうそこは王子の寝室のようだった。

 微かな衣擦れの音と共に、薄明かりの中で寝台の上の布団がわずかに動く。


「……ユイナ? カナンが来たの?」

「はい、シオンさま」


 ユイナがそっと寝台に近づき、起き上がろうとする王子の体を支える。


「カナンさま、どうぞこちらへ」

「はっ、はい!」


 言われるまま寝台に近づきながら、カナンの心臓はうるさいほど早鐘を打っていた。


 王子の背中に枕を当てたユイナが後ろへ下がると、自分によく似た瞳が目に飛び込んできた。色白で弱々しい身体とは裏腹に、まるで一瞬たりとも見逃したくないというようにカナンを見つめる、熱い瞳だった。


「あの……」


 寝台の傍らでカナンが立ち止まると、スッと白い手が伸びてきた。その白くて細い手に手首を引かれて、カナンはバランスを崩した。


「わっ!」


 寝台の方へ倒れかけたカナンは、シオンに優しく抱きしめられていた。


「やっと会えたね、カナン。ずっと、きみに会いたかったんだ」


「王子……さま」


「ぼくのことはシオンと呼んでよ。子供のころに母上が亡くなって、泣いてばかりだったぼくに、ユイナが教えてくれたんだ。ぼくには血を分けた双子の妹がいるって。その時からぼくは、ずっときみの姿を想像していたんだ。ぼくの妹はどんな子なんだろうってね。本当に、ぼく達はよく似ているね。でもきみは日に焼けていて、ぼくよりとても元気そうだ」


 寝台横の脇卓に置かれた灯火の光に、王子の顔が照らされる。カナンと同じ茶色がかった柔らかな巻き毛が首元で束ねられている。

 男女の双子は似ていないと言うけれど、確かにこの人と自分には同じ血が流れているのだ。そう強く感じる。

 しかし、目の前にいる少年は自分よりも細くて色白で、儚げな少女のようだった。


(誰かが守ってあげないと、壊れてしまいそう)


 カナンは、自分とよく似た少年の弱々しい笑顔に言葉が出なかった。


「カナンは……父上を恨んでいる?」


 シオンのきれいな瞳がカナンをのぞき込む。


「え……いいえっ!」


 カナンは勢いよく首をふった。

 確かに一矢報いてやりたいという気持ちはあったけれど、別に恨んでいる訳ではない。カナンは南のあの家で、幸せに育った自分をちゃんと自覚している。


「きみを手放した愚かな父が、ぼくの代役をきみに押し付けるなんて思いもしなかったよ。でも、よく来てくれたね」


「あたし、シオンさまのお役に立てるようにがんばります」

「そんなに、がんばらなくてもいいんだよ」


 シオンは淋しそうに笑う。


「カナンには知っていて欲しいんだ。ぼくの体は政務には向かない。きみがぼくの代役を引き受けてくれたのは嬉しいけど、例え一度や二度、異国の目を欺いたとしても、いずれは知られてしまうよ。だって、ぼくは王にはなれないんだからね。できれば王族の誰かに、王位継承権を譲りたいと思っているんだ」


 重大な言葉をさらりと口にするシオンに、カナンの心は痛んだ。


「……シオンさまは、そんなに体調が良くないの?」


「そうだね。すぐに死ぬような病気ではないけど、きみのように外を駆けまわる体力は無いみたいだ。だから、ぼくの健康を取り繕ったりするより、もっと相応しいものに交代すべきなんだ」


「そんな……弱気になっちゃだめです。政務のことはわからないけど、病気に負けちゃだめです。自分がもっと良くなりたいと思わないと!」


 怒りのような感情が湧き上がってきて来て、カナンは王子の手を両手で握りしめた。


「あたしの元気をあげられればいいのに。それが無理でも、あたしは絶対シオンさまの力になりますから、そんな諦めたような顔をしないでください」


「ああカナン、きみが男だったらよかったのにね。きみになら、ぼくはすぐにでも世継ぎの座を譲るのに」


 シオンはにっこり笑ってカナンを見つめる。

 その無垢な笑顔に、カナンは青ざめた。


「そんな……」


「カナン、頼みがあるんだ。ぼくの代わりに月紫国ユンシィの皇子に会う時、きみはこの国の王族たちにも会うだろう。誰がこの国の次期王に相応しいか見てきてくれないかな。月紫国が近隣諸国のほとんどを属領にしているいま、この国を存続させるのはたぶんすごく大変だ。この国を任せることが出来るのは誰か、カナンに見てきて欲しいんだ。頼めるかな?」


 瞳をのぞき込むように小首をかしげるシオンに、カナンは青ざめたまま首を振った。


「そんなの無理です……無理に決まってるじゃないですか!」


 シオンの手を突き放すように立ち上がってしまってから、カナンはハッとしたように弱々しい王子の身体を見つめた。


「ごめんなさい」


 謝罪の言葉をつぶやきながらも、カナンは後退る。


 王子の代役が上手くいかなくても構わない。それで王が困るなら困ればいいんだ。そんな風に思っていたカナンに、シオンは次期王に相応しい者を探して欲しいと言う。

 冗談じゃない、とカナンは思った。


 何もかもぶち壊したって構わない。そう思うことでギリギリ平静を保っていられたのに。自分が何かやらかしたらこの人が困ってしまう。そう思うだけで、身動きの出来ない息苦しさを感じる。


「また来てくれる?」


 カナンを見つめるシオンの瞳は、吸い込まれそうなほどきれいだ。

 カナンが黙っていると、ユイナが静かに寝台に歩み寄った。


「さぁ、シオンさまはそろそろお休みください。カナンさまはまた来てくださいますよ」

 

 背中の枕を外し、王子が横になるのを助けながらユイナが優しく声をかける。


「待ってるから、必ずまた来て。カナン」


 布団の中から手を伸ばす王子に、カナンはようやくうなずいた。


「また来ます、シオンさま」


 深々と礼をして、カナンは王子の寝室を後にした。

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