第10話 ユーラン
「もっ、申し訳ございません!」
離れ宮の影から大きく一歩踏み出して、カナンは思い切り頭を下げた。
「林の中の人影に気づき、つい、何をしているのだろうと……。まさか、皇太子殿下とは思わず、大変失礼を致しました!」
こうなったらもう謝るしかない。カナンが下げた頭を限界まで下げ続けていると、衣擦れの音が近づいて、カナンの視界に紫色の絹靴が現れた。
「そのお仕着せ、カナン王女の侍女か?」
「さようでございます!」
「なるほど、私が不審者にでも見えたのだろうね。でも安心おし。きみの王女様に不埒な真似などしないよ。ただ空を見ていただけなんだ」
「空?」
カナンがうっかり顔を上げると、ユーランと目が合った。
「申し訳────」
「構わないから顔を上げて。ずっと頭を下げていられると私も疲れるよ」
慌てて頭を下げようとするカナンの肩を、ユーランの白い手がそっとつかんだ。
「ちょうど良いから、少し話し相手になってくれないか?」
ユーランは愁いを帯びた視線でカナンを見つめる。
皇太子にそう言われてしまっては、もちろん一介の侍女に断る選択肢などない。
カナンは返す言葉もなく、こくんと頷いた。
「私が空を見上げていると、皆は不思議そうな顔をする。私はただ、夕暮れの空を見るのが好きなのだ。昔ね……一度だけこの皇宮を抜け出したことがあるのだ。
護衛の目をかいくぐり、町を駆け抜け、幼い私はいつの間にか大河のほとりへ辿り着いた。大河に落ちる大きな夕日がきれいで、時間を忘れて眺めていたよ。あの日の風景が目に焼き付いて忘れられないんだ」
再び空を見上げながら呟くユーランの言葉を、カナンはきょとんと目を見開いたまま聞いていた。
(皇宮を出たことが一度だけ?)
ユーランは細身の優男ではあるが、病弱には見えない。年はトゥランよりも幾つか上に見えるのに、皇宮から出たことが一度きりなんて事があるのだろうか。
何かの例えか、もしくは
言葉の意味をはかりかねて首をひねっていると、ユーランはカナンの表情に気づいてクスッと笑った。
こんな薄闇の中でも、彼の流し目に含まれる色香は光のように煌めいている。皇太子宮の侍女たちは、きっとこの光に囚われてしまったのだと妙に納得してしまう。
「驚いただろう? 私はこの国の皇太子なのに、皇宮の外へ出て自由に歩く事すら出来ないんだ。外交など
「はぁ、いっいえ、それは……きっと皇太子殿下の玉体を────」
「皆そう言う。でも違うのだ。私の身の安全を理由に、皇帝陛下は私から自由を奪った。そうして、何も見ず、何も聞かず、世の中のことなど何も知らない皇太子を作り上げた。何故だかわかるか? 彼が望む後継者は、皆を率いる英邁な皇子ではなく、自分の開いた道をただ進むだけの凡庸な皇子だからだ」
いつの間にかユーラン瞳からは色香が消え、白刃のような剣呑な光で満ち溢れていた。
(この人は、父親を憎んでいるのかな?)
国の内情を他国の侍女に漏らすほど、強い憎しみがあるのだろうか。
しかし、ユーランの印象は振り幅が大き過ぎる。昨日今日会っただけでは何が本当なのか判断がつかない。
ただ、直に言葉を交わしたせいか、カナンはもう彼の事を「正真正銘のクズ皇子」という目では見られなくなっている。
「きみがカナン王女の侍女なら、トゥラン皇子を知っているだろう? 一年前に水龍国へ行った私の
「はい。存じております」
「私はね、彼のようになりたかった────別に、父上の信頼を勝ち取りたかった訳ではないよ。ただね、幼い時から剣より書を好み、紀行文を読み漁っていたのは、いつか外に出たい、遠い国をこの目で見てみたい、と願っていたからだ。
皇帝になりたいと思ったことは一度もない。そんな私が皇太子に指名されたのは、皇后である母上の強い希望があったからだ」
ユーランはそう言って苦笑を浮かべた。
「カナン王女を呼んだのは、どんな人物なのか興味があったからだ。男装してまで兄王子の身代わりを務めるような人なら、この宮の人間とは全く別の言葉を話すだろう。彼女と会って話をしたかった。でもどうやら、期待のし過ぎだったらしい。
ユーランの哀愁に満ちた述懐を妨げぬよう、カナンは小さく手を上げた。
「何?」
「あの……本当に皇帝になりたくないのであれば、いっそ逃げてしまっては如何ですか?」
「逃げる?」
「はい。王女様からお聞きしたのですが、トゥラン皇子様は二十七番目の皇子だそうですね。たくさんの皇子が世継ぎの座を争い合っていて、自分は取るに足らない存在だと言っていたとお聞きました。そんなにたくさんの跡継ぎ候補がいるなら、殿下が逃げ出したところで
カナンは眉を顰めつつ、そう提案してみた。
他国の侍女をつかまえてただ愚痴を言う。自分の身の上を嘆くだけで何も行動しないなんて、ただの馬鹿だ。自分で変えようとしなければ、何も変わらない。この人は、何故そんな簡単なことがわからないのだろう。
別にトゥラン皇子の肩を持つわけではないが、己の鬱屈を女の肌に慰めてもらうだけの男が、トゥランをうらやむなんてチャンチャラ可笑しい。
カナンの頭の中でユーランの評価の天秤は、再び「クズ皇子」に傾いていった。
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