第11話 噂の正体


「きみは、ずいぶんハッキリと物を言うね」


 ずいっとユーランの顔が近づいてきた。彼は首をかがめてカナンの顔を覗き込んだが、その声には咎めるような色はない。


「お気に触ったなら謝ります。ですが、殿下のご希望が皇宮を抜け出した幼き日と変わらないのであれば、もう一度抜け出してみるのも良いのではありませんか? もちろん、本気で抜け出すのなら、新たな場所で生きるための多大な下準備が必要かとは思いますが……」


「なるほど。考えてみるよ」

 腹を立てるでもなく、ユーランはあっさりと頷いた。気位が高い訳でもなく、居丈高でもない代わり、何がしたいのかいまいち理解出来ない。彼はカナンが想像していた月紫ユンシィ国の皇太子像を、ことごとく裏切ってくるのだ。


 確かに、「籠の鳥」だという彼の言葉が真実ならば、皇太子となってからの生活は相当息苦しいものだったろう。そこには同情するが────。


「あ! でも、殿下が出奔してしまったら、奥方様はどうなってしまうのでしょうか?」


 いくらユーランを嫌って後宮へ逃げた人でも、彼が出奔したとなれば次期皇帝の正妃という立場は失われる。彼女が政略の駒として皇宮に差し出された人身御供なら、実家に戻っても冷遇されてしまうだろう。もしそうなれば、彼に出奔をそそのかしたカナンも、彼女を不幸に陥れた皇太子と同罪ということになる。


(軽々しく提案なんかするんじゃなかった……)

 俯くカナンに、ユーランは苦笑を浮かべながら首を振った。

「彼女なら心配はいらないさ。正式に父上の側女になるだけの話だ」

「へ?」


 側女────というのは、妃よりも格下の公妾のような立場だと何かの書物で読んだ。後宮に入った女のほとんどがそうらしい────という事は、皇帝が息子の嫁だった娘を後宮に入る、ということだ。そんな非常識なことがあるのだろうか。カナンの頭は混乱状態に陥った。


「おかしいと思うだろう? でもそうなんだ。父上────この国の皇帝は、自分が望むことは何でも叶えられると信じているケダモノだ。そして私は……そのケダモノから愛する妻を取り戻すことも出来ない愚か者だ」

「そんな……」


 自嘲の笑みを浮かべるユーランを、カナンはただ見上げた。

 彼の言葉は、カナンが聞いた噂話とは異なっている。

 ユーランの悲哀に満ちた瞳に嘘偽りは感じないが、この宮で働く者たちの噂が全くの嘘だとは思えない。いったい、どちらが真実なのだろう。


「……ご正妃さまは、自ら出て行かれたのではないのですか?」


「きみも聞いていたのか。あの噂は、後宮から出た話だ。恐らく父上が流したのだろう。何も知らぬ者がそれを信じて広めてしまったのだ……。

 妻と私は、幼い頃から共に育った幼馴染だった。自然に婚約し、十二で結婚した。幼かった私たちは清いまま成人を待った。それがいけなかったのだと、今でも後悔しているよ。

 あのケダモノは、美しく成長した妻を私から奪った。皇后陛下ははうえのお茶会に呼ばれて行ったその日のうちに……彼女から手紙が届いた。私を責めることもなく、ただ会わせる顔が無いと……彼女は私が父上に逆らえない事を知っているから、助けを乞う事もなかった。この宮に古くから仕える者なら知っている。私が女狂いになったのは正妃が消えてからだと────」


「ひくっ……」

 叫び出しそうになって、カナンは両手で口を押えた。

 喉の奥が石を詰め込まれたように痛かった。

「どうして、そんな……あたしなら、許せない!」


 けしてユーランに同情した訳ではない。それどころか、妻を取り戻そうとしなかった彼には怒りさえ感じている。皇太子の彼に保身は必要ない。皇帝になりたくないなら尚更だ。それなのに、彼はどうして何もしないのだろう。あのトゥランでさえ、母の仇を討とうと密かに動いているというのに。

 ユーランの妻の気持ちを思うと、カナンは悔しくて仕方がなかった。


「泣いてくれるの?」

 知らないうちに頬を伝っていた涙を、ユーランの白い指が拭った。

「きみ、名前は?」

「……ハルノ、です」

「そうか。ではハルノ。王女様には私から使いを出しておくから、きみはこちらへおいで」


 気がつくと、ユーランに手首をつかまれていた。彼はカナンの手を引いて、林の奥に向かって進んでゆく。

 カナンはハッと我に返り、足を踏んばってその場に留まろうとしたが、ユーランの方が力は強かった。手を振り払おうとしても、がっちりと手首をつかんだ彼の手は放れない。


「殿下! 待ってください。困ります! ちょっと……止まって!」


 ズルズルと引きずられるだけだったカナンの体が、ふいに強い力で引き戻された。誰かの腕が、カナンの体を後ろから抱えている。捕まれた手は引っ張られてギリっと痛んだが、抵抗を感じたユーランはすぐに立ち止まった。


「────いくら兄上でも、俺のものに手を出してもらっては困りますね」


 頭の上から聞こえた声に、カナンの背筋がゾクリと震えた。

 良く通る甘い声と交渉ごとに慣れた口調は、確かに聞き覚えがあった。


(ひぇぇ~)


 カナンはユーランに見つかった時と同じくらい、いや、それ以上の恐慌状態に陥っていた。

  

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