第9話 夕暮れの庭園で


 サラーナに「付き合いはこれきりにして欲しい」と言い渡されたショックで、カナンはその日一日をぼんやりと過ごし、翌日になってもその状態から抜け出せなかった。

 彼女はなぜ、あんなことを言ったのだろう。カナンが他国の人間だからだろうか。

 皇太子の後宮に入りたい娘たちならば、水龍スールンの王女やその侍女たちをライバル視するかも知れないが、彼女は違う。皇太子の寵など彼女は必要としていないのだ。


(単に人付き合いが苦手なのかな? それとも……他に理由が?)


 どんなに愛想が無くても、瞳に仄かな暗さを宿していても、彼女の魅力は少しも損なわれない。困ったことに、拒絶されてもカナンの興味は増すばかりだ。


 庭に面した侍女部屋。窓辺に置かれた小卓にもたれて、カナンはハァ~と溜息をついた。

 戸が開く気配に少し遅れて顔を上げると、目の前にユイナが立っていた。


「ハルノ。悪いけれど、ナガル殿にこれを届けに行ってちょうだい」


「へ? あ、はい」

 反射的に立ち上がったカナンは、ユイナから大きめの封書を受け取った。

「これは何ですか?」


「報告書です。宮に入れない武官たちには、毎日こちらの様子を報告することになっているのですよ」

「そうですか。わかりました」


 皇太子宮に入ってから、カナンは一度も門の外に出ていない。

 格子状の内門は、常に閉ざされているだけでなく門衛まで立っている。気軽に出入り出来る雰囲気ではなかった。

 ナガルにも三日ほど会っておらず、長兄の顔を思い浮かべた途端、現金なもので急に会いたくなった。


「行ってきます!」


 カナンは封書を手に嬉々として内門へ向かった。

 門衛に「水龍国の武官が滞在している宿舎に行きたい」と告げると、まだ若そうな門衛は何も言わずに門扉を開けてくれた。


 内門をくぐるとすぐ正面に外門がある。格子状の内門とは違い、外門の門扉は黒鉄の枠のついた大きな一枚板で外が見えず、その門扉の前には見るからに厳めしい門衛が立っている。あちらは余程の理由が無ければ開けてくれそうもない。


(けっこう厳重だな)


 厳めしい門衛を横目でそっと観察しながら、カナンは右手の宿舎を目指した。

 外側の塀と内側の塀の間には武官用の宿舎があり、建物の前には練武場らしき広場があった。折良く、ナガルたち武官が練武場で剣の練習をしていた。


「兄さま!」

「ハルノ、どうしたんだ?」

 剣の練習を中断して、ナガルが駆け寄って来た。

「ユイナ様に頼まれたの。報告書だって」


 はい、とカナンが封書を手渡すと、ナガルはその場で封書を開き報告書を読み下した。


「話をする時間はあるか? 少しでいい。宿舎の中で話そう」

「う? うん」


 きびきびと歩くナガルの後について建物に入ると、テーブルと椅子がたくさん並んだ広い部屋に通された。食堂のようなその部屋には誰もおらず、ガランとしていた。


「適当に座ってくれ」


 ナガルは厨房らしい仕切りの奥へ引っ込むと、すぐに茶器を手にして戻って来た。カナンが座るテーブルで手際よく三つの器に茶を淹れてくれる。


「遅くなって済まない!」


 ちょうどお茶の支度が整った頃、ジィンが慌てたように入って来た。ちらり、と椅子に座るカナンに目を向ける。


「今日の連絡係はハルノか。何か変わったことは起きてないか?」

「はい。大丈夫です」

 カナンは胸を張ろうとしたが、ナガルが被せ気味に口を開いたので出来なかった。


「ジィンさま。これを」

 ナガルが差し出した報告書を、ジィンは彼の隣に座って目を通す。その目はだんだんと険しさを増し、そのままの眼光でカナンを睨みつけた。


「おまえ、皇太子宮の侍女と親しくなったのか?」

「親しく……はないです。もう会えないと言われてしまいましたから」


 ぷっと膨れるカナンの前で、ナガルとジィンがサッと視線を交わした。

 二人を前にしていると、なんだか尋問されている気分になってくる。カナンが戸惑っていると、ややあってナガルが口を開いた。


「ハルノ。その侍女とはもう関わるな。皇太子宮の他の侍女ともだ。些細なことで、入れ替わりが露見するかも知れない」


「その通りだ。皇太子を刺激するような真似は厳禁だ。今はただでさえ、トゥラン皇子が戻って来たらどうなるかわからない綱渡りのような状態なんだ。くれぐれも用心を忘れるな」


 ナガルに続きジィンまでが説教を始める。

 しかしカナンは、ジィンの言葉の中に自分が知りたかった情報が含まれている事に気づくと、嬉々として質問を返した。


「……ってことは、今はトゥラン皇子、皇宮にいないのね?」

「ああ。門衛の話では、冬の初めに南の自治区へ視察に向かったらしい」

「やったぁ!」


 一番の心配事が消えて、カナンは晴れ晴れとした気持ちになった。しかし、用心深いナガルとジィンはそうではなかったらしい。ジロリと睨まれ、油断は禁物だと更に怒られてしまった。



「まったく。あんなにお説教しなくても、あたしだって用心が大切だってわかってるのに」

 カナンはぶちぶち文句を言いながら内門の中へ戻った。

 ナガルとジィンに絞られているうちに、いつの間にか日は傾いていた。

 皇太子宮の屋根や白壁は淡い朱色に染まり、夕日の当たらない庭園の林は、もう薄青色に沈んでいる。


 カナンは本殿の玄関前を通り過ぎ、庭園の入口を駆け抜けて離れ宮の玄関へ急いだが、その途中で立ち止まった。

 薄闇に沈む林の中に、ポツンと佇む人影が見えた。


「誰だろう?」


 林の中にいるのは背の高い人物だ。一瞬サラーナかと思ったが、まわりの木々と比べると、人影は彼女よりも上背がありそうだった。


(男の人かな?)


 この宮に入れる男性と言えば、皇太子殿下か、彼を訪ねて来る王族だけだ。ならば木の下に佇む人影は、十中八九ユーランで間違いないだろう。

 カナンは離れ宮の柱の影に隠れ、こっそりユーランの様子をうかがった。


(何してるんだろう?)


 もしかして離れ宮の様子を探っているのかと疑ってみたが、離れ宮の建物は庭園側には細い小窓があるだけで覗き見は出来ない。話し声だって、もっと近づかなければ聞こえないだろう。どうやら離れ宮の様子を探っている訳ではないらしい。

 それならば、ユーランを見張る必要はない。カナンはさっさと戻ろうと思いつつ、なかなかその場から動けなかった。

 ユーランは、本殿と離れ宮に挟まれた林の中に佇み、ぼんやりと木々の梢か夕焼け色に染まった空を眺めている。その姿は、カナンが名付けた『正真正銘のクズ皇子』という二つ名には、あまりにも似つかわしくなかった。


(何を黄昏たそがれてるのかしら?)


 もっとよく見ようと、身を乗り出したのがいけなかった。カナンの肩が、屋根の雨どいから吊るされた鎖に触れてしまったのだ。

 カシャン────と揺れた鎖の音に、ユーランが振り返る。


(あたしの馬鹿ぁぁぁ!)


 蒼白になりながら、カナンは己の行いを悔やんだ。

 どうしてさっさと離れ宮に戻らなかったのだろう。ジィンとナガルにあんなにお説教されたばかりなのに、よりにもよって一番警戒しなきゃいけない皇太子ごほんにんに見つかるなんて。

 恐慌に陥りつつも、揺れる鎖を慌ててつかんで音を止めたが、もう遅い。


「誰だ! 出て来い!」


 厳しい声で誰何するユーランの声に、カナンはビクッと肩を震わせるのだった。




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