第8話 風草(ファンユン)
カナンは離れ宮に戻っても、サラーナのことが頭から離れなかった。
生まれは何処なのか。どんな人なのか。あの青い布にはどんな秘密があるのか。
考えたところで答えが出るはずもないのに、ふとした瞬間に彼女の潤んだ瞳を思い出すと、同じ疑問が脳裏を駆け巡ってしまうのだ。
「ねぇ、アルマさんはどう思います? サラーナさんのこと」
カナンは洗濯物を箪笥にしまいながら、アルマにそう尋ねた。
洗濯場を取り仕切るエンユは、サラーナのことを愛想がないと言ったけれど、カナンはそうは思わなかった。彼女の凛とした佇まいが人を寄せ付けないだけなのだ。
何しろ彼女は、物語に出てくる女騎士のような清冽さを身に纏っているのだから。
清楚でたおやかである事が美人の条件なら、彼女はその範疇には入らないのかも知れない。けれど彼女が持つ独特の雰囲気は、どんな女性よりも素敵に見えた。
カナンがサラーナのことばかり話していたせいか、アルマは呆れ顔でため息をついた。
「ハルノはまるでサラーナさんに恋してるみたいですね。もしかして、殿方に恋したことは無いのですか?」
「……恋?」
カナンはポカンとして聞き返した。
それって美味しいの? とでも言いそうな顔だ。
「華麗な皇子の求婚をスッパリと拒んだのは有名ですが、側近のジィン様にも心を動かす素振りも見せない。侍女たちにとってあなたは謎なのですよ」
「ええー、何が謎なんですか? みんなはそんなにあのお二人が好きなんですか? ないですよぉ!」
カナンは顔の前で気だるげに手を振った。アルマが例に上げた殿方が、カナンの天敵ふたりだったことが心底腑に落ちない。
「はぁ……きっとあなたは、三人の兄君たちと四兄弟みたいに育ったのでしょうね。そのせいで、殿方に幻想を抱く余地がないのですね」
アルマはひとり納得顔で頷いている。
「まぁ確かに。すぐ上の兄や、その悪友たちとばかり遊んでいましたよ。彼らがどんなに外面を取り繕って貴公子然としてても、日頃の様子を思い出してプッと吹き出すだけでしたね」
アルマが恋の話に例えるほど、確かにカナンはサラーナに夢中だった。でもそれは、恋というより未知の存在に対する好奇心だ。あの青い布に見せた彼女の執着が、ただ気にかかっているだけとも言える。
(もう一度会ってみたいな)
しつこく思い続けていたお陰でか、カナンの願いは神に聞き届けられた。なんと翌朝、サラーナが離れ宮に訪ねて来たのだ。
「これは昨日のお礼です。皆さんで食べて下さい」
玄関先に立ったサラーナは、そう言って桃がたくさん入った籠をカナンに手渡した。
「うわぁ! 桃って
そうだ! もしお時間があるようでしたら一緒に食べませんか?」
もちろん桃は嬉しい。でも、サラーナと話が出来る好機はそう何度も巡って来るものではない。逃すわけにはいかないとぐいぐい迫るカナンに、彼女は眉をひそめつつ頷いてくれた。
「皆さんを煩わせるのは申し訳ないから、良ければ庭で話しませんか。私はこのままで十分ですから」
サラーナはそう言って、カナンが持つ籠の中から桃をひとつ手に取った。
「それじゃあ、あたしも!」
カナンも桃をひとつ手に取ると、籠をアルマに手渡して、そのままサラーナと庭に向かった。
離れ宮には、皇太子宮の庭園とは別に小さな庭がある。離れ宮の建物と、皇太子宮を囲む塀に挟まれた小さな庭だが、池の畔に石造りの東屋がある。
二人は東屋の椅子に腰かけて池を見ながら桃をかじった。
「今年の桃は出来が良い。甘味が濃いな」
「本当! とっても美味しいですね!」
皮のままシャクッとかぶりついて、桃の甘さをジーンと噛みしめる。
もちろんその間もカナンの頭の中は大忙しだ。この貴重な時間を無駄にしないためには、何の話をすれば良いのだろうかと大急ぎで考える。
「サラーナさまは、
結局、口から出たのはそんな平凡な質問だったが。
「私は北の生まれだ。旧
「はい。草原の国ですよね?」
「そうだ。私は五大部族のひとつ、アルタン族の族長の娘だ」
「あるたん……ぞく?」
首を傾げたカナンを見て、サラーナはクスッと笑った。
「草原の民は、部族という血族の集団で生活しているんだ。そういう部族が風草には五つある。アルタン族はもともと王の一族だったが、今の
「それじゃあサラーナさまは、王族のお姫様だったんですね」
「私が生まれるずっと前の話だ」
サラーナの瞳がわずかに陰ったのを見て、カナンは別の話に切り替えた。
「風草はどんな所ですか? あたし、国を出るのは初めてなんです。月紫国に来る途中で
「そうか。私も小さい頃、父に連れられて青の都へ行ったことがある。あの青タイルは本当に美しかった。ああいうものを期待しているなら悪いが、風草にはあんなきれいな建物はない。私たちは遊牧の民だからな。羊を追って草原を移動する。一応領地に家はあるが、吹雪で動けなくなる冬の間に使うくらいだ」
「冬以外はどこで寝るんですか?」
素朴な疑問がつい口をつく。
「
サラーナは夢見るように遠くを見つめる。まるで幸せだった頃を懐かしむかのように。
彼女の長い睫毛が瞳に影を落とすのを見て、カナンは何故だか心が震えた。
「もしかして、サラーナさまは故郷に帰りたいのですか?」
「いや、そうじゃない。私は、私の意思でここへ来たんだ」
きゅっと唇を結び、サラーナは意志の強い眼差しでカナンを見つめる。ハッとするほど美しいのに、その瞳の奥には深い悲しみが纏わりついている気がしてならない。
カナンは一旦口を噤んだが、無礼を承知でもう一度口を開いた。
「あの……ここに居る多くの方は、皇太子殿下の後宮に入りたがっているって聞きました。こんな事を言うのは無礼かも知れませんが、あなたは、そのような方たちとは違うように見えます」
「そうか。……どうも、話し過ぎてしまったみたいだな。どういう訳か、あなたが相手だと私はお喋りになってしまうらしい」
目を細めてサラーナは笑った。そして、立ち上がる。
「そろそろお暇するよ。これ以上ここに居たら、要らぬことまで喋ってしまいそうだ」
「そんな、まだいいじゃないですか!」
カナンが追い縋ると、サラーナはスッとその面から笑みを消した。
「あなたには本当に感謝している。でも、付き合いはこれきりにして欲しい」
サラーナはそう言うと、呆然とするカナンを残して足早に去って行ってしまった。
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