第7話 来訪前夜


「────ジィンさま、いかがいたしましたか?」


 正殿を囲む回廊を抜けたところで、門衛の武官に声をかけられた。

 ジィンは、自分でも気づかぬうちに足を止めていたらしい。


「いや、何でもない」


 視線の先で、南から来た田舎貴族の兄妹がじゃれ合っている。明日からの準備に王宮中が忙しく働いているというのに、気楽なものだ。

 見ているだけで癇に障るというのに、なぜだか足が動かない。


「ああ。あの南から来た武官、臨時で王子さま付きになったそうですね? 王子宮の侍女と兄妹だったんですね」


 門衛の武官が二人に気づいて笑みを浮かべる。


「そのようだな」

「剣はかなりの使い手だそうですね。将軍がいい拾い物をしたと言っていましたよ」

「ほぉ、それは残念だな。奴は間もなく南へ帰る」


 門衛の驚いた顔を見て、ジィンは振り切るように踵を返した。


 明日からの五日間、トゥラン皇子が滞在する間は細心の注意を払わなければならない。あの娘がとんでもない失敗をしないように見張るのは、自分の役目だ。

 ジィンは改めてそう心に強く刻み付けた。



 〇     〇



 久しぶりに姿を見せたナガルは、カナンに一冊の書物を手渡してくれた。


「これは、天白てんぱく山脈の北にある、蘭夏国ランシアに住んだ事のある学者が書いたものだ。十年前に蘭夏が月紫国ユンシィの属国になった当時の様子が書かれている」


「兄さまは、この書物を探しに行ってくれたの?」


「ああ。調べると言っても難しくてな。伝手をたどって見つけられたのはこれだけだった」


 ナガルは肩をすくめて嘆息する。

 そんな長兄に、カナンは笑顔を向けた。


「ありがとう兄さま。あたし、がんばるから!」


 カナンは書物を抱きしめた。


 月紫国の皇子が来るのはもう明日だ。この書物を読んで、トゥラン皇子への対応の仕方を考えなくてはならない。

 もう、嫌だとか言っている場合じゃない。カナンが今度こそ腹をくくったちょうどその時、ドアが軽くノックされた。


「お茶をお持ちしました」

 ユイナだった。

「ナガルさまもご一緒にどうぞ」


 円卓の上でお茶を淹れはじめたユイナに、カナンは書物を片づけてから近寄った。


「ユイナさん、あたしが出席することになっている行事を教えてくれませんか?」

「行事、ですか?」


 ユイナは手を止めて、茶器を盆に置いた。


「さっきハルノを探していた時にね、王宮の侍女から、王子さまは明日の出迎えに出席するのか聞かれたの。あたし、自分が何も聞いてなかったことにやっと気がついたんです」


「そうでしたか。ジィンが連絡していなかったのですね。申し訳ありません」


 ユイナは困ったような顔をして頭を下げる。


「明日は、王さまとスーファ王女さまが月紫国使節団のお出迎えをされますが、その後の晩餐会にはシオン王子さまもご参加の予定です。あとで全日程をお知らせするよう、ジィンに申しつけておきます」


「えっ、ユイナさんが教えてくれないの?」


「いいえカナンさま。明日からの五日間は、王子付き武官としてジィンがおそばに控えます。彼が気に入らないのはわかりますが、互いの協力なくしては上手く事が運びません。どうか今日のうちに、打ち合わせをしてくださいませ」


 本音を言えば、なるべくジィンには会いたくなかった。でも、それはあくまでカナンの個人的な感情であって、ここでごねるほどカナンは子供ではない。

 明日からのことを考えれば、ユイナの言う通りなのだから。


「……わかりました」

 しぶしぶうなずく。


「カナンさまに失礼のないように、よく言っておきますので」


 ユイナがあまりにも申し訳なさそうな顔をするので、カナンは笑って首をふった。


「それは、お互いさまだから構いません」


 今さら取り繕ったような関係を築くよりも、言いたい放題に言えた方がいい。

 そんなカナンの気持ちを察したのか、ユイナは困ったような微笑みを浮かべた。



 〇     〇



 ジィンがカナンの私室に姿を現したのは、その日の夕刻だった。カナンは円卓で書物を読んでいて、座ったままジィンを迎えた。


「明日からの日程表を作って来た」

「ありがとうございます」


 ジィンが円卓の上に乗せた日程表を、カナンは初日から順を追って目を通した。

 その間、ジィンは円卓の前に立っている。

 ちょうどナガルは退室した後で、部屋の中には嫌な沈黙が漂っている。


「あたしが参加するのは、初日から毎日続く晩餐会と二日目の午後、それから四日目の午前ですね」


「極力王子の参加が少なく済むように調整するが、余計なことは話すなよ。想定できる質疑応答の例文を書いておいたから、目を通しておけ」


 ジィンは円卓の上に、さらに数枚の書類を置いた。


「ふうん」


 その書類にちらりと目を向けただけで、カナンはジィンを見上げた。


「後で読んでおきます。極力あなたの言う通りに受答えするつもりだけど、もし想定外の質問をされたときはどうするの?」


「誤魔化せるものは誤魔化せ。わたしはすぐそばに控えている。答えに困った時はわたしに振ればいい。わたしも失礼にならない範囲で、なるべく会話に入るように努めるつもりだ」


「わかりました」


 カナンは書物に視線を落としたけれど、退室しようと背を向けたジィンに再び声をかけた。


「気に入らないだろうけど、あたし、頼まれたことはちゃんとやるから」

「わたしもだ」


 ジィンは肩ごしにほんの少しだけ振り返り、そのまま部屋から出て行った。


  

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