第8話 月紫国の皇子
雲一つない青空が広がる
すでに夕刻ではあったが、昼の長い初夏のこと。まだまだ陽は傾いていない。
立派な黒馬の列の後ろには豪華な馬車が何台も連なり、それを守るように騎馬隊が続く。
煌びやかな使節団を一目見ようと、都の人々は仕事の手を休めて大路に出て行く。
王宮に続く大路は都の人々で溢れかえり、使節団が丘の上の王宮に姿を消してもしばらく人波は消えて行かなかった。
「カナン、用意はできた?」
「はい、シオンさま」
王子の衣裳部屋から寝室に入って来たカナンは、王子の装束を身にまとい、髪も下ろして首元で束ねていた。
寝台に腰かけていたシオンは静かに立ち上がると、ゆっくりとカナンに歩み寄る。
「あまり気を使わないで。ただの食事会だからね」
「はい。終わったら報告に参ります」
カナンは丁寧にシオンに礼をすると、ユイナの待つ扉へ向かう。
ユイナが開けてくれた扉の向こうは王子の居間で、そこにはジィンとナガルが待っていた。
二人とも、膝まである紺色の立襟の上着に革のベルトを締めた武官の礼装姿だ。
美しい調度品に囲まれた王子の部屋。
この部屋から、カナンは今夜初めて、王子として外へ出て行くことになる。
「覚悟はいいな?」
ジィンが冷たい眼差しで問いかける。
「もちろん」
平静を装ってカナンが頷くと、ジィンが窺うような目を向けて来る。
「トゥラン皇子がどんなに気さくで気品ある顔立ちをしていても、礼節を保つことを忘れるな。おまえの異母妹にあたるスーファ王女は、出迎えに出ただけですっかりトゥラン皇子に心を奪われたようだ。おまえはそんな事にならないように気をつけろ」
ジィンの余計な心配がおかしくてカナンは笑った。
「心して応対いたします。──ジィン、ナガル、今日からしばらくの間、ぼくのことはシオンと呼んで欲しい。誰も見ていない場所でも」
カナンの視線を受けて、すぐさまナガルが膝をついた。
「はい。シオンさま」
ジィンも遅れて膝をつく。
「はい。シオン王子」
冷静に対応する二人の武官には、ほんのわずかな気の迷いも見受けられない。
カナンは安心したように微笑んだ。
「では行こう」
「はっ」
ナガルが先に立って扉を開けると、廊下に立っていた警備兵が二人、驚いたような顔でカナンに敬礼をする。
カナンは内心の緊張を悟られないように微笑みを返すと、ゆっくりと王子としての第一歩を踏み出した。
〇 〇
「トゥラン皇子、わが
「ありがとうございます」
王が酒杯を上げて歓迎の言葉を口にすると、トゥラン皇子も酒杯を上げ、にっこり笑って王に感謝の言葉を返す。
この日の晩餐会は、王宮中央の中庭が見える広い露台で開かれた。
薄物の天幕を張り、庭園側の席は空けたままにして、美しい池の風情を楽しめるようになっている。
池のまわりにはたくさんの
長方形のテーブルの中央に王と王妃が座り、その両脇にスーファ王女とその妹のイーファ王女が座っている。テーブルの端と端には、トゥラン皇子とシオン王子の姿をしたカナンが向かい合うように座った。
初めての対面としては程よく遠くていい距離だ。
トゥラン皇子はスーファ王女が心を奪われただけあって、なかなか整った顔立ちをしていた。
青い絹に金糸の刺繍がほどこされた美しい長衣を身にまとい、金糸で織られた帯をつけている。艶のある黒髪を銀細工で束ね、甘い笑顔をスーファ王女に向けている。
トゥラン皇子に一番近い席に座ったスーファ王女は、はしゃいだ様子で積極的に話しかけている。
トゥラン皇子はスーファ王女の質問に答えながらも、時々カナンの方へ探るような視線を送って来る。
(なんだろう……面白がっているのかな?)
屈託のない青年を装っているが、意外と策略家なのかも知れない。
カナンがそんなことを考えていた時、すぐ近くから声が聞こえた。
「病気は治ったの?」
イーファ王女だった。スーファ王女の一つ下の妹で、今年で十二歳だという話だが、幼い顔に意志の強さのようなものが感じられる。
「完全ではないけど、だいぶ良くなったよ」
「ふうん」
心配してくれた訳では無さそうな、無関心な表情だ。
カナンはもっと話をしようか迷ったが、あまり異母妹たちとは交流がなかったとシオンから聞いていたので、しばらく様子を見ることにした。
「長旅でお疲れでしょう、トゥラン皇子。今夜は家族だけの食事だが、明日は盛大な晩餐会を開き、ほかの王族や臣下の者も紹介しよう。そうだトゥラン皇子、もし良ければ、明日から皇子の世話役を娘のスーファにさせては貰えないかな?」
冷血な王が笑みをにじませながら問いかけると、トゥランはすぐ隣で祈るように両手を握りしめているスーファに笑いかけた。
「それはありがとうございます。たしか二年前に来た時は、スーファ王女はまだお小さくてお話も出来ませんでしたからね」
トゥランの返事を聞いて、スーファは弾けるような笑みを浮かべた。
「そう言えば、二年前はシオン王子といろいろお話をしましたね。この二年で見違えるほど大きくなられた」
今まで遠慮がちに向けられていた視線が、今は真っすぐカナンに向けられている。
「あ……ありがとうございます。トゥラン皇子」
一瞬、声が出なくなったかと焦ったけれど、何とか返事をする事ができた。
いくら相手が大国の皇子だからと言って、ほんの一言返すのに汗だくになっている自分が情けない。
「明日はきみとも話がしたいな。どうだろうか、シオン王子?」
「はい。嬉しいです」
カナンはぎこちない笑みを浮かべた。なかなか緊張が取れないのは、昨日読んだ
蘭夏に住んでいた学者の書物に描かれていたのは、圧倒的な
降伏し武器を捨てた男も、逃げまどう子供らも構わず殺し、女は犯したあと殺された。その後行われたのは、小さなオアシスの町が壊滅してしまうほどの略奪だった。
命からがら逃げ出せた学者は、軍を指揮していた武将の怖ろしい笑い声が忘れられないと述懐していた。
目の前にいるのは、そんな軍隊を擁している月紫国の皇子だ。緊張するなと言われても無理だろう。
カナンのぎこちない笑みをどう受け取ったのか、トゥラン皇子はクスッと笑ったようだった。
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