第6話 裏庭の噂話
ジィンが届けてくれた書物は、さすがに属国の統治についてまでは書かれていなかったものの、
月紫国の皇子が来るまでのわずかな時間を無駄にしないように、カナンは自分の部屋に籠って書物を読みふけり、夜にはシオンの部屋を訪れる毎日を送っていた。
書物を持って来た日からジィンは姿を見せず、カナンが頼みごとをした長兄ナガルも、あれから姿を現さない。
「ああ……嫌だなぁ」
窓辺にもたれて、カナンは本音を吐き出した。
とうとう明日は月紫国のトゥラン皇子がやって来る日だ。さすがのカナンも緊張で胃のあたりがしくしくと痛む。
思わずつぶやいたカナンの本音に、王子の衣装をそろえに来ていたユイナが顔を上げた。
「カナンさま、気分転換に散歩へでも行かれてはいかがですか?」
「えっ……でも」
「今からそんなに緊張していては疲れてしまいますよ。トゥラン皇子が到着するのは明日の夕刻ですから、今日くらいはゆっくりしてください。トゥラン皇子が来られたら、一週間は自由に動けなくなってしまいますからね」
「そっか、そうですよね」
カナンは窓から離れ、ユイナのそばに歩み寄った。
「それじゃ、あたし裏庭まで行ってきます。ハルノにお茶のお礼を言いたかったの」
「はい。いってらっしゃいませ」
カナンは急いで侍女のお仕着せに着替えると、外へ出て行った。
ハルノが分けてくれた
初めは寝台から体を起こすだけだったシオンが、近頃は寝台から出てカナンを待っていてくれるようになったのだ。
もちろんお茶は南にいる兄に送った事になっているから、まだその効能のお礼を言うべきではないのだが、カナンはどうしてもハルノにもう一度お礼が言いたかった。
王子宮の門を出てすぐ左に曲がると、王子宮の塀と正殿を囲む回廊の間に使用人が使う小道がある。ここを走り抜ければすぐに裏庭だ。
裏庭に着いてすぐにハルノの姿を探すが、そうそう都合よく通りかかるはずがない。
カナンは裏庭の隅から隅まで探し回り、使用人が使う食堂の中を見回したが、そこにもハルノの姿は見えなかった。
「あのっ、医務局付の下女のハルノさんを見かけませんでしたか?」
ちょうど通りかかった年の近そうな女の子に話しかける。
「ハルノなら、奥で休憩してるわよ」
彼女はそっけなく答えてから、ハッとしたようにカナンを凝視した。
「あなた、王子宮の侍女よね? ねぇ、王子さまは明日のお出迎えに出られるの?」
ぱっちりした大きな瞳に見つめられて、カナンの心臓が飛び跳ねた。明日から始まるであろう様々な行事や、シオン王子の参加不参加を、自分が何ひとつ知らなかったことに気がついたのだ。
「えっと……お出迎えに出られるかは、まだわかりません」
「そうなんだぁ。王子さまのお顔が見られるかと思って、せっかく明日の当番変わってもらったのになぁ」
王宮正殿の侍女らしき紫色のお仕着せを着た女の子は、ひどくがっかりした様子で食堂から出て行ってしまった。
(やっぱり、みんな王子さまのお顔が見たいんだね)
それほどシオンは、宮中でもめったに顔を見られない存在になってしまっているのだと思うと、何だか申し訳ないような気がしてくる。
明日以降、みんなが見ることになる王子はニセモノなのだ。
「あれ、カナン?」
ハルノの声がした。
「もしかして、あたしを探してた?」
「うん。休憩時間じゃないかと思って。この間くれた岩香茶、兄に送ったよ」
「そっか。効くといいね」
二人は裏庭に出て行った。日差しが強くてかなり気温が高くなっているが、日陰に入ると涼しくて気持ちがいい。
二人は池のほとりの大きな石に仲良く座った。
「明日からあんまり休憩とか取れそうにないから、その前にもう一度お礼が言いたかったんだ」
「そっか、明日から来るんだよね、
「うん。今からドキドキするよ」
カナンが思わずため息をつくと、ハルノは大きな声で笑った。
「なんであんたがドキドキすんのよ? 王子のお世話係にでもなったの? そう言えば何日か見かけなかったよね。忙しかったの?」
身を乗り出してくるハルノに気圧されて、カナンは思わず身を引いた。
「いやいや、あたしは裏方だから。ただね、ほら、王子さま大丈夫かなって」
「ああそうだね。王子さまは体が弱いから、外交とか苦手だよね。月紫国の皇子は外交上手だし、剣豪って噂もあるから、うちのか弱い王子さまに無理難題を突きつけたりしないといいけど」
ハルノは訳知り顔でうなずきながら腕を組む。
「なになに? 無理難題って、剣の手合わせとか?」
今度はカナンがハルノの顔をのぞき込んだ。
「そうだね。狩りとか遠乗りとか、とにかく体を使うことに誘われたらきついよね」
「でもさ、外交的にはあちらの皇子に花を持たせればいい訳でしょ? うちの王子さまが剣とかで勝てる訳ないから、ちょうどいいんじゃない?」
「かと言って、あんまり相手にならないんじゃね。二年前に来た時には、確か王子付きの若い武官が相手をしたって話だよ」
「王子付きの武官?」
ジィンの顔が浮かんできて、カナンは嫌な顔をした。
「なかなか良い試合だったらしいよ。見た目も良い武官だったらしくてさ、あたしらよりちょっと上の侍女連中は、その武官見かけると今でもキャーキャー言ってるよ」
「へぇー。あいつ性格悪いのにね」
「カナン、知ってるの?」
「たぶん。あたしのこと目の敵にしてる人のことだと思う」
「まっ、あたしらには関係ないよね」
ハルノは慰めるように、カナンの肩をポンと叩いた。
「これも噂だけど、一番上の王女さまも接待に駆り出されるらしいよ。王子さま一人じゃ頼りないからだろうけど、王女さまが月紫国の皇子に気にいられたら、月紫国との姻戚関係を築けるじゃない。そういう腹積もりもあるんじゃないかな」
「へぇー、そういうことか。なるほどね。ハルノの情報網ってすごいね!」
カナンは心から感心した。
「これくらい普通だよ。まっ、あんたもしばらく大変だろうけどさ、月紫国の皇子が帰ったら都を案内してやるよ。その頃にはお休み貰えるでしょ?」
「うん、そうだね。楽しみにしてる!」
二人は立ち上がると、手を振って別れた。
カナンがいつものように、正殿と王子宮の間の狭い小道を歩いていると、門の前に大柄で色黒の武官がいることに気がついた。
「兄さま!」
久しぶりに兄の姿を見つけたカナンは、勢いよく走ってナガルに駆け寄ると、そのままの勢いで抱きついた。
「遅くなって済まなかったな、カナン」
ナガルの大きな手がカナンを抱きしめて、頭をポンポンと叩く。
それだけで、カナンはとても安心した。
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