第1話 家出人ふたり


「おーい、トールとケイル! こっちへ来てみろ!」


 大海原を行く帆船。

 その舳先へさきに立つキースが、大声を張り上げて二人を呼んだ。

 高々と掲げた手を大げさに振っているのは、反応のない二人に苛立っているからなのか。


 ────現在、空は快晴だ。

 ついさっきまで、悪夢のような嵐をもたらしていた雨雲はもうどこかへ消えているが、波はまだ変わらずうねっていて、船は大きく上下に揺れている。



「トール兄……い、生きてる?」


 縄でマストに体を括りつけられ、空樽を抱くように突っ伏していた少年が、青白い顔をむくりと上げた。

 その隣には、同じような体勢でぐったりしている青年がいる。


「な、なんとか。カナ……じゃなくてケイル、おまえは?」

「あた……僕も、なんとか……」


 胃の中はすでに空っぽで、吐く物すら残っていない。それでもまだ時おり胃の腑がせり上がり、オエッとえづいてしまう。


 嵐のせいで船酔いに苦しめられた兄弟は憔悴しきっていて、とてもキースの呼びかけに応えられる状態ではない。しかも、雨に濡れた服に冬の冷たい海風が容赦なく吹きつけて、トールも男装したカナンケイルも凍えそうだった。


「おいおい、まだへばってるのか?」


 舳先にいたはずのキースが、いつの間にか中央マストまで戻って来ていた。

 嵐の最中と同じ体勢でマストに括りつけられているカナンとトール。二人を見下ろす彼の目は、呆れを通り越してどこか冷たい。

 カナンはキースに応えようと口をパクパクさせるが、声は出なかった。


「キース様。本当にこいつらを東の島インシアへ連れて行くんですか? いくら弟分だと言ったって、こんな軟弱な奴らじゃ漕ぎ手にも使えませんぜ。それを本部に連れて行くのはさすがに……」


 いかにも海の男らしい丸太のような腕をした髭だらけの大男、ラクランが口を挟んでくる。彼は、キースの麦わら色の髪よりもやや濃い赤銅色の髪をガシガシとかき回しながら、その厳めしい顔に不満の色を浮かべている。


「今更そんなことを言うな。もうインシアは目の前だぞ」

「いや、もしキース様が許すなら、俺が本土まで小船を漕いで捨てに行ってもいいですぜ」

「馬鹿言うな。こいつらは俺の客だ。捨てる訳ないだろ!」

「そうですか?」


 ラクランは残念そうにため息をつきながら、軟弱な兄弟を見下ろした。


「ああ、こいつら寒いんじゃないですか? 唇が真っ青だ。濡れた服をひん剥いて、毛布でも掛けときましょうか?」


 そう言うなり、ラクランはマストに括りつけてあった縄を短剣で素早く切り、ギョッとしたまま固まっているカナンの帯をむんずと掴んで持ち上げた。


(ひっ……ひん剥くって)


 もともと青ざめていたカナンの顔色が、サーッと白くなってゆく。

 それに気づいたキースは、慌ててラクランの手からカナンを奪い取った。


「こいつらの面倒は俺がみる。おまえはインシア入港に備えろ!」

「あいあいさー!」


 ラクランは二本指をこめかみの辺りにあてると、キビキビとした動作で持ち場へ戻って行く。


「はぁ~ぁ……もう、勘弁してくれよ」


 キースは泣き言をつぶやきつつ、両手でカナンとトールを引きずって船倉の客室に連れて行った。


 狭いが二人部屋の個室を彼らに提供したのは、男装してケイルと名乗るカナンの秘密を守るためだ。


「ほらほら、扉を見張っててやるから、さっさと着替えろ! このままだと本当に凍え死ぬぞ」


 キースはくるりと二人に背を向け、扉の正面に立った。

 カナンとトールは、左右の壁に備え付けられた釣り床ハンモックの下にある、作り付けの棚から荷物を取り出してモゾモゾと着替え始めた。

 その微かな音を聞きながら、キースは小さく息をついた。


「良いかおまえら、もうすぐ東の海賊シムルの本拠地、東の島インシアに着く。本気でうちの幹部を説得するつもりなら、もっとシャキッとしろ! そんな弱々しい姿を見せたら、下っ端の連中だっておまえを馬鹿にする。話を聞く奴など一人もいないだろう」


 厳しい口調でそう言うと、背後で気配が動いた。


「ごめんキース。これからは、もっとちゃんとするから」


 振り返ると、着替えを終えたカナンがしょんぼりと俯いて立っていた。

 キースの目には、カナンのつむじしか見えない。


「いや。わかればいいんだ」


 キースはカナンの顎に手を伸ばし、顔を上に向かせた。

 紙のように白かった顔には、少しだけ色が戻って来ている。しかし、その顔に刻まれた眉間のしわと、悔しげに引き結ばれた唇には悲壮感が漂っている。


 カナンの乱れた髪を整えてやりながら、キースは眉をひそめた。


(まさか、髪を切ってしまうとはな)


 女性にとって長い髪は命のようなものだと聞く。それなのに、トールの弟ケイルを名乗るにあたって、カナンは背中まであった髪を肩のあたりまでバッサリ切ってしまった。首の後ろで束ねられた髪は、カナンの覚悟の表れなのだ。


 最初にカナンが、シムルの拠点に行って幹部を説得してみたいと言い出した時、キースは反対した。

 そんなことをしても無駄だ。頭の固い連中がよそ者の言葉を信じる訳がない。そう言って断った。しかし、何を言ってもカナンは諦めなかった。


 押し切られるようにして乗船を許してしまったのは、もしかしたらキース自身がそれを望み、希望を持ちたかったからなのかも知れない。

 ただ、今だにこれが正解だったかどうかはわからない。


「俺も出来る限り力を貸す。だが、何も保証は出来ない。幹部を説得するのはおまえだ」


 こくりとカナンがうなずく。


「トール。インシアは荒くれ者の島だ。俺がいつもおまえらと一緒にいられる訳じゃない。カナンをしっかり守れ。どこへ行く時も常に一緒に行動しろ。カナンの傍を離れるな」


「わかってるよ」


 トールのしっかりした声にうなずき返し、キースは扉に手をかけた。


「あと僅かでインシアに着く。それまで少し休んでいろ」

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