第34話 変化の兆し
トゥランの執務室から出て来たアルティンは、一礼して扉を閉めたあと、廊下を数歩ほど進んだところで立ち止まり、おもむろに胸を押さえた。
そのまま拳を握りしめると、青い軍服の上着にクシャリと皺が寄る。
(あの男は……正気なのか?)
アルティンは、数日前に配置替え願いを出した。
シリンの護衛騎士であることに不満があった訳じゃない。むしろ、彼女を守ることに誇りを持っていた。配置替え願いを出したのは、あの男を一途に見つめ続ける彼女の傍にいる事が苦痛になったからだ。
あの男に呼びつけられた時は、配置替え願いについて聞かれるのだと思っていた。しかし、彼の口から語られたのは全く別の話だった。
確かに、アルティンが危惧していたように配置替え願いは取り下げることになった。それはあの男の一方的な都合であり、彼はアルティンの同意さえ得ようとはしなかった。
『────そういうことだから、後は頼んだ』
穏やかに微笑んで、あの男はアルティンにとんでもない役割を押しつけると、すぐに退室を命じた。
一体何様のつもりだと叫びたかったが、
よろよろとした足取りで、アルティンは歩き出した。
少しでも早く、あの男の執務室から遠ざかりたかった。
ひと気のない小さな中庭までたどり着き、ベンチに腰掛けようとした時、ふいに声をかけられた。
「アルティン! トゥラン殿下に呼び出されたんだって?」
「フィル……ザ王子」
アルティンは慌てて腰を浮かした。
「フィルでいい。いつも通りに呼んでくれ。それより殿下は何て? お叱りを受けたのか? だとしたら私のせいだ!」
フィルーザ王子はアルティンの両腕をガシッとつかむと、そのままの体勢でベンチに腰を下ろした。当然、彼も一緒にベンチに座ることになる。
「アルが配置替え願いを出したって聞いて、シリンの護衛騎士が嫌になったのかと思って、心配で心配で、つい殿下の従者に漏らしてしまったんだ」
言うだけ言ってシュンとうなだれてしまったフィルーザを見て、アルティンは小さくため息をついた。
「お叱りは受けていないが、配置替え願いは取り下げることになった」
「えっ?」
パッと顔を上げたフィルーザは、明らかに喜色を浮かべている。
それを見て、アルティンは吹き出した。もう、何もかもが可笑しくて仕方がない。
「あの男は……トゥラン皇子は、本気であんなことを考えてるのか? 彼は本当に、属領を解放出来るのか?」
ついつい幼馴染の気安い口調で尋ねると、フィルーザはにっこり笑って頷いた。
「私はそう信じているよ」
〇 〇
島をぐるりと囲む外輪山に建てられたシムルの建物から、すり鉢状に低くなった島の内部を見下ろすと、枯れ草色だった地面には緑が萌えだしていた。
「おーい、ケイル! 皿洗いしてくれよ!」
「はーい!」
昼食の食器を片付けながら窓の外を見ていたカナンは、慌てて厨房へ戻っていった。
東の島に帰って来てから、カナンとトールは食堂の手伝いを再開していた。
食堂に来るシムルの男たちは相変わらず大酒飲みで声が大きかったが、以前と違うことが一つある。彼らの会話に「総督府攻略」という言葉が頻繁に聞かれるようになったことだ。
シムルの最高幹部は、トゥランとの会合を前に少しずつ情報を開示し始めたのだ。
『属領の一斉蜂起』はまだ伏せられているが、『シムルによる青湖解放』を幹部が目論んでいることだけは、末端の隊員にまで告知された。
現在、事実上青湖を支配している総督府をシムルが制圧し、月紫国から独立する。その告知は、ある種の熱を持って隊員たちの中に広まっていった。
夜の食堂で管を巻く男も、ケンカする男もすっかり見かけなくなった。
(みんな、国を取り戻したい気持ちは一緒だね)
カナンは、北の国で会ったサラーナ達に思いを馳せた。
大国に翻弄されるだけだった小国の未来が、ここから変わっていくのかも知れない。
もちろん、すべてが上手くいくとは限らない。月紫国をどれだけ油断させることが出来るか、属領がどれだけ連携を取って動けるかが全ての鍵になるだろう。
(何としても、トゥラン皇子との会談は成功させないと……)
部外者のカナンが、会合に参加出来るかどうかはわからない。でも、船には乗れるはずだ。
「ケイル!」
厨房の端で皿洗いをしていたカナンは、ハッと顔を上げた。
カウンターの向こうでキースが手を振っている。
「キース……様?」
「ちょっといいか?」
「は、はい。すぐ行きます!」
洗いかけの皿を手早く濯いで、カナンはキースの後について行った。
キースは、島全体が一望できる展望台にカナンを連れて来た。ここからは、島の内側はもちろん、外側の海まで見渡せる。
「明後日の会合には、部隊長と副官クラスが参加する。海軍で言うと船長と副船長ってところだ。それから、海上ってのはさすがに不安定だから、近くの島まで先導することになった。もちろん、きみとトールにも同行してもらう」
カナンは目を瞠った。
「それじゃ……」
「彼は、水龍国の兄弟に会いたいそうだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます