第25話 ユーランとイリア


「イリア!」


 廊下へ出てすぐ、ユーランはうつむきながら歩く妻の姿を見つけた。しかし、彼女はユーランに気づいた途端、恐れおののいたような表情を浮かべて踵を返した。


「待ってくれ! 逃げないでくれ!」


 ユーランはすぐにイリアを追った。

 広い廊下を駆け抜け、彼女が姿を消した扉のない戸口へと駆けこんだ。

 そこは四方を建物の壁で囲まれた長方形の中庭だった。正后殿に隣接する西殿との間に設けられたものだ。四方に入口があり、庭の真ん中には長方形の池がある。ここを抜ければ回廊を歩くよりも早く西殿に行ける。使用人の中には近道として使う者も少なくない。


 その中庭の中ほどで、ユーランはイリアの手をつかんだ。

 細過ぎる彼女の手首にハッと息を呑む。次いでつかんだ肩も驚くほどやせ細っていて、ユーランはイリアを見下ろしたまま固まった。


「…………ちゃんと、食べているのか?」


 最初に口から出たのはそんな言葉だった。

 久しぶりに会う妻には、もっと別の言葉をかけたかった。だが、今は他の何よりもイリアの健康状態が心配だった。


 その言葉に驚いたように、イリアがハッと顔を上げた。

 少し垂れ目の可愛らしい瞳が、ユーランを見上げるうちにじわりと潤み、溢れた涙が睫毛の先からぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。

 イリアの涙を見た瞬間、ずっと心の奥底に閉じ込めていた想いが込み上げて、ユーランは彼女のか細い体を抱きしめた。


「会いたかった! ずっと…………そなたに会いたかった。なぜもっと早くに、こうすることが出来なかったのだろう。そなたをこの手に取り戻したいと、ずっと思っていたのに。こんな愚かな私を、そなたは許してくれるだろうか?」


 夢中で想いを伝えているうちに、腕の中で抗っていたイリアが急に静かになった。

 彼女の細い腕がユーランの背に回り、彼の衣にぎゅっとしがみついてくる。

 その感触に、泣きそうになった。


「イリア……もしも、私を許してくれるなら、一緒にこの鳥籠から逃げて欲しい」


 ユーランは腕を緩め、背を屈めてイリアの顔を覗き込んだ。

 俯いたままの彼女に答えを促すように、柔らかな頬に手を添えてみるが、彼女は顔を上げてはくれなかった。ただ、ユーランの胸に顔を埋めたまま、大きく頷いてくれた。


「ありがとう。イリア!」


 もう一度、力いっぱい彼女を抱きしめた時だった────。

 ザッ、と周囲の空気が変わった。


 四方にある入口から、正后殿のお仕着せを着た四人の侍女が音もなく現れた。ただの侍女でないことは一目瞭然だ。彼女たちは一様に不穏な空気を纏っていたのだ。


「皇太子殿下。イリア様をお放しください」


 四人の侍女はユーランを包囲するように歩み寄り、中央に立った一人がそう言い放った。



 〇     〇



「────えっ、手の者って?」


 カナンは首を傾げた。皇后の言葉の意味がわからなかった。

 きょとんとしたカナンの様子を見て、皇后は薄く笑った。


「誰かはわからぬが、皇帝あの男がこの正后殿に、手練れの配下を送り込んでいる事はわかっている。イリアを取り戻すのは、恐らく難しいぞ」


 どうやら、この宮殿の中には敵対勢力がいるらしい。


「わかりました! その〝手の者〟たちから、ユーランさまたちを助ければいいのですね?」


 云うが早いか、カナンは立ち上がった。

 パッと長椅子の後ろに並んだ侍女たちに振り返ると、ユイナとアルマは戸惑ったような表情を浮かべたが、サラーナはしっかりと頷いてくれた。


「ユーランさまを追いましょう!」


 カナンたちは皇后の居間を出て、広い廊下を走った。

 外壁同様に白い漆喰で覆われた壁には、絵画のように色鮮やかなタペストリーが飾られている。

 広い廊下の左右にはたくさんの部屋があり、小さな中庭や別の建物に続く回廊にも繋がっている。来る時は案内の女官がいたから気づかなかったが、一瞬でも気を抜けば即座に迷子になってしまうだろう。


 とりあえず走って来たけれど、廊下の先にはユーランの姿どころか、人の姿は見えない。


「ユーランさまー! どこですかー?」


 カナンは走りながら声を上げた。

 その声に答えるように、誰かの甲高い悲鳴が聞こえてきた。


「あなたたち、何をしているのです! 皇太子殿下から離れなさいっ!」


 その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。例の〝手の者〟たちは既にユーランの近くにいて、彼らの邪魔をしているのかも知れない。


 カナンとサラーナは顔を見合わせると、声のした方へ勢いよく駆け出した。

 枝分かれした細い廊下から、扉のない四角い入口に飛び込んだ。

 そこは、小部屋ほどの広さの中庭のような空間だった。中央に長方形の池があり、その周りにはぐるりと玉砂利が敷かれている。四方にある入口以外は建物の壁に覆われていて、遥か上方には空が見える。


「曲者です! 皇太子殿下、お逃げ下さい!」


 声を上げたのは一人の女官だった。

 庭の中ほどで、壁を背にして立つユーランとイリアを守るように、その女官は四人の侍女と対峙していた。仕事の途中だったのだろう。細長い布包みを胸の前に抱えている。


 彼女の顔を見た瞬間、カナンは息を呑んだ。


(ヨナ、さん? や、違うか?)


 その女性は驚くほどヨナに似ていた。正確に言えば女装したヨナによく似ていたのだ。しかし、よく見ればヨナよりも小柄だし、服の上からもわかる豊満な胸は、とてもニセモノには見えなかった。


「敵は四人か。ハルノ、下がっていろ」


 サラーナの囁きにハッと身構えて、カナンは首を振った。


「お手伝いします。と言っても、武器はありませんが。サラーナさんは?」

「私は大丈夫だ」


 サラーナは布帯の中からスルリと鞭のような革紐を引き抜いた。


「やつらは侍女姿だ。持ってるとしても得物は短いだろう」

「ですね!」


 カナンは頭を覆っていた薄絹をつかんで投げ捨てた。

 武器になる物はないかと辺りを見回すが、残念ながら何もない。とりあえず、玉砂利をザクッとつかんで握りしめた時、ヨナ似の女官がカナンたちの方を向いた。


「そこの方々、ご助力願います!」


 彼女の瞳が、キラリと輝いたように見えたのは気のせいだろうか。

 その声につられるように、四人の曲者のうち後方にいた二人がカナンとサラーナの方へ振り返る。それと同時に、細長い棒のようなものがカナンの足元に落ちてきた。恐らくあの女官が投げてよこしたのだろう。彼女の手にあった布包みが消えている。


 ザッと玉砂利を蹴散らして二人の曲者が駆けた。

 カナンは持っていた玉砂利を二人に投げつけた。その隙に、足元に落ちた棒を拾った。手によく馴染むそれは、なんと練習用の木剣だった。見ると、先ほどの女官もカナンと同じ木剣を手にしている。


(あの人は、こちら側の人なのかしら?)

 カナンは木剣を構えて、後ろにいる二人に声をかけた。


「ユイナとアルマは、イリアさんをお願い!」


 カナンの隣で、サラーナの鞭がヒュンっと空を切る。

 自分に向かって来る曲者の手にキラリと光る刀身を確認して、カナンは深く息を吐いた。


  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る