第12話 気弱な王子と王女


「────月紫国ユンシィ皇帝がこの婚姻話に乗り気なのは、シリン姫と結婚した俺にこの蘭夏の実権を握らせ、水龍国スールン攻略の拠点としたいと考えているからだ。

 万が一にも水龍国を攻める事になれば、中央の兵だけでなく、もちろんこの蘭夏ランシァの兵も駆り出されるだろう。本来ならばこの蘭夏の次期領主は、フィルーザ王子、あなただ。考えを聞かせてくれないか?」


「わ、私は……」


 フィルーザは視線をさまよわせた。

 シリンと同じウェーブのある黒髪を首元で一つに結んだ青年は、青白い顔をうかがうように父へ向ける。ウルマンがわずかに頷くのを確認して、フィルーザはようやくトゥランに弱々しい目を向けた。


「私には、父の後を継ぐ気概も、それに必要な勇気も持ち合わせておりません。トゥラン様がシリンと結婚してこの蘭夏を導いてくださるなら、私は喜んで次期領主の立場を返上し、貴方様を補佐することを誓います」


「……ふぅん。嫌な仕事は俺に押しつけて、早く安心したいって訳か? そんなことを言われて俺が喜ぶとでも?」


 トゥランが見せた失笑に、フィルーザが目を瞠る。


「俺は正直、父上の考えには反対だ。水龍国攻めの指揮を執れなんて冗談じゃない。

 そもそも俺は、今の属領制度には反対なんだ。このまま放っておけば、各地に広がる不満はいつか爆発する。それはこの蘭夏だって同じだろう。フィルーザ王子、それでもあなたは、俺に蘭夏を任せると言えるか? 俺はいつか、皇帝に反旗を翻すかもしれないぞ?」


 ビクッと、フィルーザの肩が揺れた。

 彼はトゥランよりも年上なのに、まるで儚げな姫のような表情をする。

 確かに、幼い頃に受けた心の傷はあるだろう。だとしても、これが国を奪われたかつての王族の男子なのかと声を上げて罵りたくなる。


「私は……それでも……トゥラン様に従います」


 怯えるシリンとそっくりな顔で答えるフィルーザを見つめながら、トゥランは笑いたい衝動を必死に抑えた。


「俺に、絶対の忠誠を誓えるか?」


「はい。もちろん、誓います!」


「よかろう。今この時から、俺はシリン姫の仮の婚約者だ。フィルーザ殿には、ガォヤンを解任後、将軍になってもらうとしよう。俺の部下を副官につけてやるから、速やかに蘭夏軍を掌握しろ。出来るか?」


「わ、私に将軍になれと? そんな、剣を持ったこともない私が将軍になど……」


「俺はフィルーザ殿に戦えとは言っていない。軍を掌握しろと言ったんだ。自国の民の軍だぞ。頭と口さえあれば剣が使えなくても掌握できるだろう?」


「あっ、頭と、口……なるほど」


 一瞬ぽかんとしたフィルーザが、納得したようにうなずいた。


「自信はありませんが、やってみます。しかし、本当に彼を……ガォヤン将軍を解任できるのですか?」


「出来るも何も、やつが言い出したことだ。そろそろ故郷へ帰りたいそうだ。すでに解任の書類は届けさせた。やつの思惑はわからないが、そのうち中央へ戻るだろう」


 ガォヤンが自ら引退を言い出したことに、領主一家は驚きを隠せないでいる。

 トゥランは酒杯に残っていた酒を飲み干すと席を立った。


「俺は先に失礼する。ほとんど休みなく皇都と蘭夏を往復したからな。さすがに疲れた」


 本当は、旅の疲れよりもこの夕食のひと時の方がよほど疲れた。だが、それをおくびにも出さずにトゥランは笑顔で退室した。




「後ろ、ついて来てますよ」


 薄暗い廊下を自室に向かって歩いていると、隣を歩くヨナがそう囁いてきた。

 トゥランもその気配には気づいていた。ついでに言えば、ついて来ているのが誰なのかもわかっていた。

 ヨナがわざわざ声に出したのは、トゥランがどうするつもりか確認するためだろう。


「はぁ~」


 どうしてこう、疲れることばかり起こるのだろう。

 トゥランは疲れたように大きなため息をついた。が、滞在している部屋はすぐそこだ。脱力している暇はない。トゥランは仕方なく足を止めて振り返った。


「シリン姫。俺に何か用か?」


「ひゃっ……あ、あの、トゥラン様にお仕えするようにと、父に命じられました。じ、侍女の代わりに、身の回りのお世話を致します」


 突然振り向かれて驚いたのか、それともトゥランを見ただけでそうなったのか、シリンは真っ赤に頬を染め、胸の前で祈るように両手を組み合わせてトゥランを見上げている。


「身の回りの世話は必要ない。ヨナがいれば十分だ」


 トゥランがそう答えると、シリンは泣きそうな目でヨナをじっと見つめる。

 ヨナはその場で深く一礼すると、「控えの間へ下がっております」と言って踵を返した。


「おい! ヨナ!」


 トゥランが呼んでも振り返らずに、ヨナは客室の扉へ姿を消してしまう。

 どう考えても、シリンが父に命じられたという身の回りの世話は言葉通りではないだろう。ヨナが引き下がったのだってそういう意味だ。

 トゥランは髪をかきむしりたかったが、乱暴に搔き上げるだけで止めた。


「シリン姫。俺が引き受けたのは、あなたの婚約者という肩書だけだ。その代わり、この蘭夏を月紫国のくびきから解き放ってやる。だから、そんな風に自分を安売りするな。わかったか?」


 トゥランは踵を返そうとしたが、シリンの必死な声がそれを止めた。


「や、安売りではありません! わたくしは、ずっと以前から、あなた様をお慕い申し上げておりました」


 胸の前で組み合わされた両手は、握りしめすぎて血の気を失っている。


「時おり訪れるあなた様を、次はいつ来て下さるのだろうと、指折り数えて待っておりました。あなた様のお姿を見られるだけでとても幸せだったのです。

 そんなわたくしが、肩書だけでもあなた様の婚約者となれた。これ以上を望むことなど出来ません。でも、父は言いました。例え一時でもあなた様のお心を慰めることが出来たら、ずっとお傍に置いてくださるかもしれないと」


 シリンの一世一代の告白に、トゥランは一瞬言葉を失ったが、しかし態度は変えなかった。


「その気持ちだけ、ありがたく受け取っておこう」


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