第1話 カナンの婚約者(仮)
「おい! 何だその町娘のような恰好は! おまえは私の婚約者だという自覚は無いのか?」
釣り針を買いたくて、うっかり町へ出たのがいけなかった。
「はぁ? あたしがいつあんたの婚約者になったのよ? 言いがかりつけるのは止めてよね! それに、あたしがどんな服を着ようとあたしの勝手でしょ! むしろ、これが、あたしの通常モードだから!」
両手を握りしめて、プルプル震えながらカナンは叫んだ。
対するアロンは、横分けにした長い前髪を手櫛でサッとかき上げて、厭味ったらしい笑顔を浮かべた。
「ふん。下らぬ御託はいらん。捨てられたとは言え、王家の血を引くおまえと釣り合うのは、この南部貴族の中では私一人しかいない。南部領主ガネス・ラサの孫である、このアロン・スレスタが、おまえを嫁に貰ってやると言っているんだ。ありがたく思え!」
アロンが言い放った言葉に、カナンはグッと奥歯を噛みしめた。
南部の貴族。カナンと年の近い貴族の中でも、アロン・スレスタはいつもその身分をひけらかせて威張っているような男だった。南部人よりも王都人に近い色白な肌を自慢しては、ナガル兄たちのような生粋の南部人を馬鹿にする。そんなアロンを、カナンは小さい頃から大嫌いだった。
「寝言は寝てから言いなさいよね!」
カナンはアロンのすました顔を見上げてそう言い放ったが、全然言い足りない気がした。
「おまえこそ、さっさと目を覚ましたらどうなんだ? 今のおまえは王族じゃないんだぞ。王都の奴らはおまえのことをこう呼んでいるそうじゃないか────
アロンは生き生きと暴言を投げ続ける。カナンの言葉くらいではちっともダメージを受けていない。やはり、言い足りなかったのだ。
カナンはブルッと大きく肩を震わせると、両手で自分の腕を抱いた。そして、思いきり嫌そうに目を細めながらアロンを見上げる。
「あんたの顔を見てると
カナンは脱兎のごとく駆け出した。
遠い異国で、命にかかわるような皇帝一家の騒ぎに巻き込まれたせいか、家に帰ればまた穏やかな日々を送れると思い込んでいた。なのに、南部に戻ったカナンの身辺は、想像以上に騒がしくなっていたのだ。
カナンの到着を待っていたかのように、領主様から招待状が届いた。月紫国の話を聞かせて欲しいとの要望に応えるため、王都にいるナガルを除く家族全員で領主様の招きに応じた。今考えれば、これがいけなかった。
領主であるガネス・ラサの館には、彼の娘の婚家であるスレスタ家の人間も来ていた。
領主様の隣に座るアロンの得意げな顔を見たとき、カナンは嫌な予感に襲われた────そしてその予感は見事に当たってしまったのだ。
月紫国の話は、いつの間にかカナンとアロンの結婚話にすり替わっていた。
ガネス・ラサはけっして高圧的な領主ではない。赤子だったカナンを、理由も知らせず預けたことで、シン家には恩義も感じていたはずだった。なのに、アロンとの婚約を薦める老公の言葉には迷いがなかった。
眉をひそめたカナンの様子に気づいた養父セヴェス・シンは、低姿勢ながらも「家に帰って家族で話し合いたい」と願い出てくれた。
それが養父にとってどんなに大変なことなのか、カナンも十分理解している。
国のトップが国王であるのと同じように、地方のトップは領主なのだ。その地方に住む貴族たちは己の領地を治めてはいるが、南部全体を治める領主の意向に逆らうことは難しい。
(なんで来ないのよ? こんな時こそあんたの権力が役に立つのに! もちろん、必要なのは権力だけだけどね! あんたに来て欲しいなんて微塵も思ってないから!)
アロンの前から逃げ出して、馬を預けた馬屋を目指しながら、カナンは月紫国の皇子トゥランの顔を思い浮かべていた。
月紫国では危ない所をトゥランのお陰で切り抜けられた。そのお礼に、彼を南部に招待すると約束したのだ。
南部に帰ったら空に放つようにと預かったトゥランの鳥は、南部に戻ってすぐに空に放ってしまった。こんな事になるとわかっていたら、もう少し手元に置いておいたのに。残念ながら、今はもう彼に連絡を取る術はない。
忙しい彼のことだ、南部を訪問する時期は完全に彼の都合によって決まる。カナンはそれを待つしかないが、彼が来るまえに婚約話が整ってしまうかも知れない。
今のところ唯一の希望は、王都にいる長兄が戻って来てくれることだ。
シオン王子が来るのは無理でも、この婚約話に反対すると一筆書いてくれれば、王位継承権を返上したとはいえこの国の王子だ。多少の防波堤にはなってくれるのではないだろうか。
自分一人だけの事ならばどうとでもなる。けれど、育ててくれた養父母や兄たちに迷惑はかけたくない。
天敵ともいえるトゥランを頼るなんて情けないが、今は使える権力は何でも使わせてもらいたい。何しろ今のカナンは、せいぜいアロンから逃げ回ることくらいしか出来ないのだから。
(最悪だわ!)
カナンは物凄い速さで町を駆け抜けた。
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