第16話 嵐


 その日の夜から雨が降り出した。

 久しぶりのお湿りだと思っていた雨はだんだん強くなり、翌日には風を伴った嵐になった。


「これは、かなりの大嵐になりそうだな」


 カナンが長椅子に膝乗りで窓の外を眺めていると、ナガルが心配そうにつぶやく声がすぐ後ろで聞こえた。


「うん。今日は外に出られそうにないね」


 窓ガラスに打ちつける雨は激しさを増し、外は見通しが悪く真っ白に見える。


「大した荷物もないが、今のうちに帰る支度をしておけばいい」

 ナガルはそう言うと、円卓に戻って剣の手入れを始める。

「うん……そうだね」


 カナンは円卓の方へ向いて座り直すと、ナガルが剣の手入れをする様子をしばらく見つめていた。

 ナガルが磨いているのは、王から下賜された剣だ。昨夜、ジィンが褒美と一緒に届けてくれたものだ。


 カナンも翡翠の首飾りを貰った。亡くなったシオン王子の母上の物だというそれはあまりに豪華なもので、カナンはすぐ箱の中にしまい込んでしまった。

 本当の母親の『形見』という意味なのだろうが、カナンは見たこともない人の事など考えたくもなかった。カナンの母親は南部にいる母ひとりきりだ。


(兄さまは、ここに残りたいのかな?)


 剣を磨くナガルの背中を見ながら、カナンはふとそう思った。昨夜、ジィンとナガルが話していたのは、そんな内容だった気がする。

 地方の貴族が武官として王宮に出仕することは珍しくないが、大抵は二男や三男などで長男は稀だ。でも、地方に後継ぎさえいれば、別に長男でも構わないだろう。


「兄さま、王宮で働きたいなら残ってもいいんだよ。あたしなら一人でも帰れるし」


 カナンがそう言うと、ナガルは手を止めて振り返った。


「確かにそういう話は頂いているが、おまえを一人で帰したら父上に殺される。それに、もし出仕したいなら、おまえを送り届けてからでも遅くはないだろう」


 ナガルの表情は穏やかだ。


「まだ、気持ちが決まってないの?」

「そうだ。おまえはどうなんだ、本当に南へ帰っていいのか?」

「あたしは、ここに残る気なんてないわ」


 カナンがそう答えた時、コンコンと扉が叩かれた。


「失礼します。お茶でもいかがですか?」


 にこやかに入って来たのはユイナだった。茶器の乗った盆を円卓の上へ置くと、美しい所作でお茶を淹れてくれる。

 カナンが円卓に移ってお茶を飲みはじめると、ユイナは立ったままじっとカナンを見つめた。


「ユイナさん、どうしたの?」

「カナンさまは……本当に帰ってしまわれるのですか? シオンさまが悲しまれます」

「ごめんなさい」


 この会話も、もう何度か繰り返されている。

 カナンを王宮に留めてくれるように、シオンは王に頼んだらしいが、王にやんわりと断られたのだという。それでもまだ、シオンは諦めてくれない。ユイナもそうだ。


「昨日、ユジンさまがこの宮にいらしたのはご存知でしょうか?」

「あ……はい」


 カナンは昨日、門の前でユジン王子とぶつかってしまった事を、まだ誰にも話していなかった。


「表向きは従弟のジィンに会いに来たことになっていますが、本当はシオンさまに会いにいらしたのです」

「えっ!? あの二人は、従兄弟同士なんですか?」


 あまりに驚いたので、カナンは大声を上げてしまった。

 確かに似ていると思ってはいたけれど、まさか親戚だとは思わなかった。


「はい。わたしの兄のところへ王姉殿下が降嫁されたので、恐れ多いことですが、ユジンさまはジィンの従兄にあたります」

「うわー、なんか真逆なお二人ですね」


 カナンは思わす苦笑したが、昨日のユジンは少し怖かったことを思い出した。


「それで、シオンさまはお会いになったのですか?」

「ええ、お会いになりました。寝台の中からほんの短い時間だけでしたが……ユジンさまの問いかけに対し、王位継承権を譲るお話を肯定されました」


 ユイナは縋るような目をしている。

 カナンはユイナの言葉に絶句した。


「……ユジンさまは、わざわざ確認しに来たのですか? あの方が、王位を継ぐことになるのですか?」


「それはわかりません。ユジンさまは、王位継承順位としてはコウンさまより上位ですが、わたしの兄よりも、コウンさまの御父上である将軍の方が王宮では力を持っています。ユジンさまはとても穏やかな方ですが、勘の鋭い方です。何も起こらなければよいのですが」


「何もって……?」


 カナンは言葉が継げなかった。もしも、ユジンとコウンが互いに王位継承順位を無視すれば、そういった争いになっても不思議ではない。


「シオンさまは解っておられないのです。王位継承権が離れた後、直系男子の処遇がどうなるのか。新王となられる方にとって自分の存在がどんなものなのか、少しもお解りになっていないのです。例えシオンさまは王位に執着が無くても、そのお子が生まれたらどうでしょう? きっと新王やその側近の者にとっては、消えて欲しい存在になるはずです」


 シオンの行く末を案じるユイナの血を吐くような言葉に、カナンは圧倒された。


「ユイナさん、あたしにはどうする事も……」


 カナンはうつむいて唇を噛みしめた。自分にはシオンを守る力なんて無い。

 その時、突然ナガルが立ち上がった。


「申し訳ないが、これ以上カナンに重荷を背負わせないでください。妹はまだ十四です。王家の一員でもないのに、王家のいざこざに巻き込まないで頂きたい」


 静かな口調ではあったけれど、ナガルの強い思いが込められた言葉だった。


「申し訳ございません。本当に……失礼をいたしました」


 ユイナは深く頭を下げると、小走りに部屋から出て行った。


 カナンはナガルを見上げた。

 ユイナが出て行った扉を見つめて立っているナガルの姿は、いつもと変わらぬ静かな長兄のものだった。


「兄さま」


 カナンが呼びかけると、ナガルはカナンの隣に立ち、そっとカナンの頭を抱き寄せた。


「気にするな。おまえの仕事はもう終わったんだ」

「うん」


 窓を叩く風の音はいっそう激しさを増していた。



〇     〇



 その頃、王都から離れた北の領地では、一足早く嵐になっていた。

 月紫国ユンシィの皇子の一行は、北の領主の館に丸一日足止めされている。

 普段は静かなはずの室内にも、激しい雨の音が絶え間なく聞こえている。


「今夜もここに泊まるしかありませんね。トゥランさま」


 従者のヨナが声をかけると、窓辺に立って外の様子をうかがっていたトゥランは、不機嫌この上ない顔で振り返った。


「いつになったら止むんだ、この雨は?」

「さぁ、いつでしょうね」


 トゥランの不機嫌など物ともせず、ヨナは軽く肩をすくめてお茶を淹れはじめる。


「ここで足止めされるんなら、水龍スールンの城にもう一日居ればよかったんだ」


 ブツブツと文句を言う主に、ヨナは眉をひそめた。

 淹れたてのお茶を窓辺の小卓に置くと、ヨナはまじまじとトゥランを見上げた。


「ずっと気になっていたのですが、トゥランさまは当初の目的を果たさず、なぜ病弱な王子に構ってばかりいたのですか? 幸いこの雨で、誰かに聞かれる心配はありません。答えてください」


「別に……気が乗らなかっただけだ」


 視線を逸らすトゥランを、ヨナは執拗に追いかける。


「もちろん、例の計画はトゥランさまが立てたもの。他に良案があるのなら、わたしはちっとも構わないのですが、一応聞いておきたいですね」


 ヨナが追及すると、チッと微かな舌打ちが聞こえた。


「別に、良案なんて無い。ただ、こんな小国では役に立ちそうもないと思っただけだ」

「本当ですか?」

「ああ、本当だ。しつこいぞヨナ!」

「当然です。他人事ではありませんからね」


 ヨナがそう言った時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえて来た。

 二人は顔を見合わせ、会話を中断した。


 雨はまだまだ止みそうになかった。

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