第23話 茶会
「こっ、皇后陛下。
妙に歯切れの悪い女官の声に、皇后は寝そべっていた長椅子から身を起こした。部屋の扉へ目を向ければ、どういう訳か、やつれた様子の女官が困惑の表情で佇んでいる
「何かあったのか? そなた、顔色が悪いようじゃが」
「そ、それが……皇太子殿下がご一緒なのです。侍女も付き添っております」
「なんだと?」
皇后は手にしていた扇を開いてサッと顔を隠した。恐らく、自分は今とんでもなく醜い顔をしているだろう。
(ユーランは……水龍国の王女を娶るつもりか? 何も知らなかった一度目とは違う。さすがのあやつも、二度目まで奪われてはたまらぬと思ったか?)
水龍国の王女を茶の席に呼んだのは、イリアの時と同じように皇帝の命を受けたからだ。
自分の部屋に呼び、そのまま皇帝の寝所に送り出す。夫に女を送るなど、若い時ならば耐えられなかったろうが、皇后の地位を手に入れ、息子を皇太子の地位に据えた今は、何とも思わない。
皇后の実家は力をつけ、すでに政敵を一掃している。皇帝ももはや皇后の一族を敵に回す気概はないだろう。
ただ一つ気がかりなことがあるとすれば、息子ユーランのことだ。彼のことは不憫に思わなくもない。
皇后は小さく息をつき、常に従順だった息子の顔を思い浮かべた。
幼い頃から分をわきまえた子だった。わがままを言わず、言われたことを素直に聞く子供だった。己の手で育てた訳ではない。生まれてすぐ乳母の手に引き取られたのだ。会うのは季節の節目などの特別な席のみ。それほど愛情があった訳でもない。ただ、
(ようやく……か)
己の気持ちを出せるようになったのか。
彼に行動を起こさせた水龍国の王女にも、違った意味で興味を覚えた。
「良い。茶の用意をいたせ」
「はい!」
女官は一礼すると、皇后の居室から出て行った。
後宮の中央に建つ正后殿。その広い敷地の中でも皇后が茶会に使うのは、庭の見渡せるガラス張りの部屋だ。日の当たる室内は冬でも暖かい。初夏の今は、薄く開けた窓から爽やかな風を入れている。
皇后が長椅子に座っていると、両開きの扉が開き、女官に先導されたユーランとカナンが入室してきた。彼らの後ろには三人の侍女も続いている。
「ユーラン、そなたを呼んだ覚えはないぞ。何故ここに居る?」
そう問いながらも、視線は彼の後ろを歩くカナンを捉えている。顔半分を薄絹で覆っているとはいえ、彼女は臆した素振りも見せずに一歩進み出て、ユーランの隣に並んだ。
「カナン王女との茶会を邪魔するつもりはありません。ただ少し、母上にお聞きしたいことがあるのです」
「ほぉ。まぁ、来てしまったのだから仕方ない。座るが良い」
閉じた扇で向かいの長椅子を指し示すと、ユーランとカナンは適度な距離を開けて同じ長椅子に座った。
(ふむ。それほど親密な関係でもないのか?)
皇后付きの侍女が手際よく茶を淹れて、三人の前に湯気の立つ茶器を置く。その間、皇后の目は注意深く二人を観察していた。
「で、聞きたい事とは何じゃ?」
開いた扇をゆらゆらと揺らしながら、皇后はそう問いかけた。ユーランとの話をさっさと終わらせて、彼をここから追い出さねばならない。
問いかけた瞬間、緊張したのかユーランの顔が少し強張った。
ようやく己の気持ちに正直になったとはいえ、やはり長年培った従順な自分という殻を破るのは難しいのだろう。
諦めにも似た気持ちでため息をついた時、ユーランが口を開いた。
「母上に聞きたいのは、イリアのことです。彼女は、今日のカナン王女と同じように母上の茶会に呼ばれ、それきり戻って来ませんでした。母上は、彼女を父上に差し出したことを、どのように思っているのですか?」
ユーランの口から淡々と紡がれる言葉を、皇后は目を瞠ったまま受け止めた。
慌てて扇で顔を隠したが、驚きの表情は見られてしまっただろう。だが、そんなことを気にする余裕などなかった。あまりにも想定外な彼の質問に、返す言葉などなかったのだから。
「どのように……とは?」
「私は母上の気持ちが知りたいのです。あなたは
淡々とした言葉の中に、わずかに責めるような響きが混じる。
その小さな棘に気づいた瞬間、皇后の心の中で何かが弾けた。
長年、無意識のうちの閉じ込めてきた暗い思いや、心の奥底に溜まり続けた淀んだ水が、堰を切ったように吹き出したのだ。
(私は……あらゆる苦難を乗り越えて、この月紫国の皇后となった。皇宮は弱肉強食。弱い者は死ぬ運命。それが嫌ならどんなに弱い者でも戦うしかない。
私は常に戦い続けた。過去には皇帝の寵姫を暗殺したこともある。権勢を誇る一族の後押しを受けて、ようやく皇后の地位を手に入れ、息子を皇太子に据えた────けれど、あの男の心を掴むことだけは出来なかった。
私とて、そもそもあの男を愛していたのかどうか怪しいものだ。ただ……あの男から自分の寝所に女を送る手伝いをしろと言われた時は、誇りを踏みにじられた気がした)
「……腹が立たぬ訳があろうか! あんな男など愛しておらぬと、いくら自分に言い聞かせたところで、腹立ちは収まらなかった! けれど、その腹立ちを面に出すことは皇后としての矜持が許さなかった。私に出来ることは、女狂いの馬鹿な男に、笑って女を差し出すことだけだった!」
「その女が息子の妻でも、あなたは
「憐れとは思ったが、それだけだ」
氷のように冷え切った目で、皇后は息子を見つめた。
侍女が淹れたお茶は、誰も手を付けないまま冷えていった。
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