第28話 トゥランの侍女
知らない部屋の寝台で、カナンは目を覚ました。
光が降りそそぐ部屋はきれいに整えられていて、窓の外に見える庭も美しかったけれど、頭痛とめまいがして気分は最悪だった。
「気がつかれましたか? さぁ、これを飲んでください。気分が良くなります」
背中を支え起こされ玻璃の器を手渡されたカナンは、自分の横にいる人間が見たことのある男だということに気がついて眉をひそめた。
「あなたは……」
「はい。トゥラン皇子の従者をしている、ヨナと申します」
優し気な面差しの青年だと思っていたのに、どうやらヨナはカナンが思っていたような人物ではなかったようだ。
「さぁ、飲んでください。毒ではありませんから安心してください」
にっこりと微笑む顔も穏やかな口調も、今は嘘臭く見える。それでもカナンは、玻璃の器に入った液体を飲み干した。冷たい薄荷茶のような味がした。
「もうすぐ主人が戻って参ります。それまでは寛いでいてください」
ヨナはカナンの手から玻璃の器を引き取ると、ゆっくりと離れてゆく。
カナンはそっと体を動かしてみた。気分は悪いが、どこにもケガは無いようだ。
寝台から静かに足を下ろし、立ち上がってみる。
部屋には茶器を片づけているヨナしかいない。
(逃げるなら今しかない……けど)
自分を攫ってきたのがヨナなら、きっと簡単には逃げられないだろう。
カナンは用心深く、部屋の中や窓の外をうかがった。
「言っておきますが、逃げ道はありませんよ」
円卓の向こうでヨナが笑みを浮かべている。
カナンは思わずヨナを睨みつけた。
「あたしは友達に会いに行くつもりだったんです。どうしてこんな事をするのか、説明してください!」
カナンが問いつめると、ヨナは小首をかしげてクスクスと笑った。
「あの伝言のことなら、嘘ですよ。わたしがあなたをおびき出すために、伝言を頼んだだけですから」
「嘘?」
カナンは呆然とヨナを見つめた。
「わたしがあなたをここに連れて来た理由は、説明しなくてもわかっている筈です。違いますか?」
冷たい汗が、カナンの背中を伝ってゆく。
ヨナの言っているのが見舞いを断り続けた件なのか、それともシオン王子の代役をしていた件なのか、見当がつかない。
「わかりません……」
「なるほど、わからないフリをするんですね」
ヨナはあごに手を当てて考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「ああ、主人が帰って来たようです。話は彼に聞いてください」
ヨナがそう言うと、まもなく騒々しい足音が聞こえ、乱暴に扉が開いた。部屋に入ってくるトゥランの姿を見て、カナンは気が遠くなりそうだった。
「ようやく会えたな、カナン。おまえに会うのに苦労をさせられたぞ!」
トゥランはゆっくりとカナンの前までやって来ると、呆然と立ち尽くしているカナンの頬に手を伸ばす。
「少し痩せたようだな」
頬に触れたトゥランの手に驚いて、カナンは一歩後退った。
「皇子さま……先日は、失礼いたしました」
トゥランの顔を直視できなくて、カナンは深々と頭を下げた。
「ああ、そうだな。おまえの兄は随分と恩知らずだ。おまえが元気になったら、少しの間おれの宮に貸してくれと頼んでいたのに、見舞いもさせてくれなかった。おまえはどう思う? この国は恩を仇で返す国なのか?」
カナンが一歩下がった分、トゥランは笑顔で一歩近づいてくる。
「それは……申し訳ありませんでした。では、あたしはここで、侍女の仕事をするために連れて来られたのでしょうか? ずいぶん手荒な方法でしたが……」
カナンはもう一歩後ろへ下がった。
「もちろん、皇子さまは命の恩人です。侍女の仕事で恩返しになるのなら、仕事はさせて頂きますが、南領から次兄が迎えに来るまででよろしいでしょうか?」
「帰るのか?」
距離を置こうとするカナンを追うように、トゥランは間を詰めて来る。
「……はい」
「悪いが、それは延期してもらおうか。おれがこの宮に滞在しているあいだは、おまえにはここにいてもらう」
ニヤリと笑うトゥランの顔を見て、カナンは恐怖を覚えた。
初めてトゥランを見た時は、華のある皇子だと思った。
大国の皇子にしては明け透けな物言いをする、朗らかな人だと思った。
シオンの代役として過ごしているうちに緊張も解けてきて、いつの間にかもう一人の兄のように接していた気がする。
でも今は違う。カナンが見ていたのは、彼のほんの一部分に過ぎなかったのだ。
カナンが無意識に後退ると、背中に何かが当たった。
振り返るとすぐ後ろは張り出し窓になっていて、カナンの逃げ場はもう無くなっていた。
バンッと音を立てて、トゥランが張り出し窓に両手をついた。
カナンは自分の両側に渡された腕を見て青ざめた。
「おれのことは、トゥラン皇子と呼んでくれ。そう、少し低めの声でな」
囁くようなトゥランの言葉には、シオンの身代わりをしていたカナンが意識して低めの声で話していたことすら、知っているように聞こえた。
(この人は……全部知ってるのかも)
彼はきっと、騙されたことを怒っているのだろう。
それは当然の事で、騙していたカナンには弁解の余地もない。けれど、国同士の思惑が絡んでいる以上、何ひとつ認める訳にはいかない。
「……では、トゥラン皇子さまの所で仕事をすることになったと、兄に知らせに行ってきます。何も言わずに出てきてしまったので、きっと心配していますから」
カナンは素早くトゥランの腕をくぐり抜けたが、すぐに腕をつかまれた。
「その事なら心配はいらない。もうヨナが王子宮へ知らせに行ったからな」
トゥランの言葉通り、部屋の中からヨナの姿は消えていた。
「知らせにも……行かせては貰えないのですか?」
「王子宮へ帰ったら、また何だかんだと理由をつけてここへは戻ってこないだろう?」
意地の悪い笑みを浮かべるトゥランの顔を見て、カナンは唇を噛みしめた。
卑怯な手段で自由を奪われたことには腹が立つが、非はこちらにある。
「では……何から始めましょう? この部屋のお掃除ですか?」
「ここはおまえの部屋だ。居間をはさんだ向こうがおれの部屋になっている」
トゥランが腕をつかんだまま歩き出したので、カナンは引っ張られるまま扉の外にある広い居間に出て行った。
美しい調度で整えられた居間は、南側に庭が見え、カナンのいた部屋の扉と向かい合うようにもう一つの扉があった。
北側にあるもう一つの大きな扉は、きっと出口に違いない。
カナンが注意深く部屋の中を見回していると、トゥランと目が合った。
「掃除用具を取りに行きたいのですが、手を放していただけませんか?」
「本当に掃除をするつもりか?」
トゥランは吹き出した。
「せっかくだが、ここは王宮の者が掃除しているし、おれの使用人もいる。おまえがやることは特に無い」
「では何故、あたしをここへ連れて来たんですか?」
カナンは頭にきてトゥランの手を振り払ったが、またすぐにつかまれてしまう。
「おまえとはいろいろ話がしたいと思ってな。飽きたら返してやるから、しばらく我慢しろ」
「飽きたらって……」
カナンが必死に平静を保とうとしていると、いきなりあごをつかまれた。
「そう怒るな。おまえだって、信じていた者に裏切られれば、おれと同じような気分になるさ」
「それは……」
返す言葉が見つからなくて、カナンはもう一度唇を噛みしめた。
トゥランは確かに、シオンに対して親しみを抱いていた。自国の兄弟たちより好ましいとすら言ってくれた彼を、カナンは裏切っていたことになる。
弟のように思い始めていたシオン王子がニセモノだと知った時、彼はどれほど傷ついたのだろう。
「まぁいい。座れ」
トゥランはカナンの手を引っ張って椅子に座らせると、自分も向かい側の長椅子に腰かけた。
「ナガルとおまえは異母兄妹だと聞いたが、そうなのか?」
「……兄がそう言ったなら、そうなのでしょう。あたしは本当の母の顔も知りません。今の両親が本当の両親だと思っていましたから」
「では、剣の腕は兄譲りか?」
「さぁ、分かりません」
「あくまでも、自分の正体は明かさないつもりか。……まぁ、おまえの口から聞かなくても構わないけどな」
トゥランは拗ねたように視線をそらし、ゆっくりと足を組みかえる。
「おまえは、自分を狙った犯人が誰か気にならないのか?」
「気にはなりますが、兄に全部任せていますから」
淡々と答えるカナンに、トゥランは面白くなさそうに腕を組む。
「ふーん。すべては愛しい兄さまにお任せか、焼けるな。ナガルと本当の兄妹でないのが悲しいなら、いっそナガルと結婚したらどうだ? 本当の家族になれるぞ」
「あたしが……ナガル兄さまと?」
目を大きく見開いたまま呆けた顔をしているカナンを見て、トゥランはパッと腕組みを解いた。
「おまえ、いま本気で考えただろう! 残念だが異母兄妹で結婚は無理だぞ。それとも、まったく血のつながらない兄妹なのか?」
トゥランは険しい目をカナンに向ける。
「いっ、いえ、違います。ちょっと想像してしまっただけです」
真っ赤な顔をして否定するカナンを見て、トゥランはいっそう不機嫌になった。
その時、北側の扉が開き、ヨナが姿を現した。
ヨナは静かに部屋を横切ると、トゥランの座る長椅子の後ろへ回った。
「トゥランさま、失礼します」
ヨナは腰をかがめてトゥランの耳元に顔を寄せる。こそこそと何か囁くたびに、トゥランの顔に笑みが浮かんでくる。
「ほう、それはめでたいな」
ヨナが下がるのを待って、トゥランはカナンに向き直る。
「スーファ王女の結婚が決まったそうだ。西の国へ輿入れするらしい」
「えっ?」
なぜ、スーファ王女に西国への結婚話が出るのだろう。
近隣の西国と言えばトルアン王国で、年の近い王子がいるのも知っている。だから、婚姻の話が出るのは別に不思議ではないけれど、スーファ王女がトゥラン皇子に好意を持っているのは、王も知っていたはずだ。
「どうした? 相手がおれじゃなくて残念だったか?」
「いえ、そんな……」
「明日の晩餐会で発表があるらしい。せっかくだ、おまえも晩餐会について来い。少しくらいならナガルに会わせてやってもいいぞ」
カナンは唇を噛んだ。
今すぐ兄に会いたかったけれど、トゥランの悪意のある笑顔を見た今、とても素直には喜べなかった。
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