第26話 カナンの告白


「────おい、気安く触るな!」


 いつの間に来たのか、カナンの頭を撫でていたキースの手を、トゥランがつかみ上げていた。


「だーかーらぁ、カナンは俺の妹分ですって! 邪な気持ちは一切ありませんてばぁ」


 ほろ酔いのキースは、いつも見せていた慇懃無礼な態度を消し去り、気安い口調でトゥランに言い返している。


 本当に酔っているのか、それともトゥランの様子を探るための演技なのか。

 キースの正体を知ってから、いつの間にか彼に対する見方は変わってしまっていた。子供の頃からの釣りの師匠であり、兄のように慕っていたキースのことを、カナンはもう青湖シンファのシムルとしてしか見られなくなっている。

 きっとこれから先も、いろいろな事が変わっていくだろう。


(────でも、それでいい)


 子供の頃はともかく、今の彼は祖国のために働いているのだから。


 トゥランに追い払われて、キースはしぶしぶ居間にいるサウォルたちの所へ戻ってゆく。その姿をしばし目で追ってから、カナンは目の前に立つトゥランを見上げた。


「トゥラン皇子。ちょうどいいから、お話の続きをさせてくれませんか?」


 昨日の質問の続きをするには、静かで良い夜だ。

 キースのことがなくても、知りたいことをうやむやにされたままトゥランと別れる訳にはいかない。彼がやろうとしていることが何なのか。まずはそれを知らなければ────。


「構わないが……寒くはないか?」

「大丈夫です!」


 カナンは思いきりうなずいたが、気を利かせたヨナが二人分の外套を持ってきてくれたので、ありがたく袖を通した。

 トゥランはテラスの手摺にゆったりと寄り掛かり、カナンを見下ろしている。


「で、何が知りたい?」

「トゥラン皇子が何をするつもりなのか、全部知りたいです!」


 カナンが前のめりになってそう言うと、トゥランはフン、と鼻を鳴らして素早く辺りに目を配る。誰かに聞かれることを警戒しているのだろう。

 カナンもつられて辺りを見回すが、広々とした芝生の裏庭は朔月の闇の中に沈んでいる。光が届く範囲に人影らしきものは見えないし、屋敷を囲む林は少し離れているので、そこに潜んでいる者がいたとしても声が届くことはないだろう。


「すこし歩くか」


 トゥランはそう言って手摺から身を起こした。テラスの脇にある三段ほどの階段を下りて裏庭の芝を踏むと、トゥランは振り返ってカナンに手を差し伸べた。

 たかが三段の階段を下りるのに助けなんかいらないのに。そんな思いがない訳ではなかったが、カナンは大人しくトゥランに手を預けて階段を下りた。


 階段を下りても、トゥランはカナンの手を放さなかった。指の間に自分の指を絡ませて握り込むと、そのままカナンの手を引いて歩き出す。

 こんな時なのに、トゥランの硬い手の感触やその温もりに、カナンの胸はドキドキと高鳴り、頬もじんわりと熱くなった。冷たい外気と暗闇がなかったら、とても平静ではいられなかっただろう。


「────昨日おまえが言った通り、俺は属領を解放するつもりだ。月紫国ユンシィから属領を取り上げることで、皇帝及び、皇后の一族の力を削ぐ。そのための協力者はもう八割がたそろってる」


「それは……お母様の仇討ちですか?」


 カナンがそう尋ねると、トゥランは星の光だけでもそうとわかるほど、不愉快そうに顔を歪めた。


「否定はしない。が、それだけではないさ。おまえは……旗色が悪くなったら、俺がサラーナたちを見捨てるんじゃないかって思ってるんだろう? 馬鹿にするな。俺だって、属領の奴らの苦労は嫌というほどわかってる」


 トゥランの声が大きくなることはなかったが、カナンの手を握り込んだ彼の手には痛いほど力が入っていた。

 トゥランの言葉に嘘はない。彼はちゃんと属領の味方なのだ。

 そう思うと何だか嬉しくなって、カナンはふふっと笑った。


「ちょっとだけ疑ってました。ほら、トゥラン皇子のことを信用できるほど、あたしはあなたのことをよく知らないでしょ? だから、全部知りたいんです。すべての属領と、連携は取れているんですか?」


「いや……今のところ北と南の三領だけだ。西の蘭夏ランシァと東の青湖シンファはまだだ。おまえの婚約騒動も解決したことだし、俺はこのまま水龍国スールンを北へ抜けて蘭夏へ行くつもりだ」


「え、いつ出発ですか?」


「明日、つことにした。蘭夏は中央の兵が実権を握っていて、かつての王族と会うのは骨が折れるんだ。が、まぁ、感触は悪くない」


「明日……急ですね。ええと、それじゃ、青湖は?」


 トゥランの急な出立を聞いてカナンは動揺を隠せなかったが、それでも訊くべきことは忘れなかった。


「東は、接触すら出来ない」


 苦虫を嚙み潰したようなトゥランの答えは、キースの言葉を裏付けるものだった。


「もし……接触できるようになったら、トゥラン皇子が自ら青湖へ行くんですか?」


「もちろん俺が行く。だが、青湖は難しいだろう。今も俺の配下が潜入してるが、どうにも接触できないんだ。最悪の場合、青湖抜きで事を始めるかも知れない」


「えっ、もうそんな? 戦が……始まったりするんですか?」


「そうだな。戦になるだろう。だが、そんなにすぐじゃない。蘭夏しだいとしか言えないが、一年も二年も先の話じゃない」


「じゃあ、半年くらいならまだ大丈夫? サラーナさんに会いに風草ファンユンに行きたいと思ってるんですけど……そうだ! トゥラン皇子の鳥さん、また貸してくれませんか?」


 そう訊いた途端、トゥランはゆっくりと歩いていた足をピタリと止めた。


「鳥は貸せない。おまえ……おかしなことを考えてないだろうな? いいか、おまえは水龍国スールンを出るな! すべてが終わるまで、大人しく兄たちに守られてろ!」


 繋いだ左手はそのままに、トゥランは右手でカナンの肩を乱暴につかんだ。

 眉をひそめた目元は静かな怒りに満ちていたが、ここでトゥランの剣幕に負ける訳にはいかなかった。

 カナンは唇を噛みしめた。


「一年前、トゥラン皇子が水龍国に来た頃から、あたしはずっと、この国がいつか月紫国の属国になるんじゃないかって不安に思ってました。あたしにとって、サラーナさんたち属領のことは他人事じゃないんです」


「おまえがこの国を心配してることくらい知ってる。だが、おまえは動くな! 俺の心配の種をこれ以上増やさないでくれ!」


 トゥランにつかまれた肩が痛かった。

 彼の言葉に嘘はないだろう。カナンを心配して言ってくれているのだ。

 だから、これ以上何を言っても彼は耳を貸さないだろうことは、カナンにもわかっていた。そもそも彼は、カナンの協力など必要としないだろう。


 本心を言えは、戦などせずに済めばいいのにとカナンは思っている。けれど、それが難しいことも分かっている。生半可な計画であの皇帝を倒すのは無理だ。

 サラーナたち属領の人たちだって、命を削る覚悟でことを起こすと決めたのだろう。


 トゥランだって────。


 どんなに願っても、戦が起これば命の保証はない。これが今生の別れになる可能性もあり得るのだ。もう二度と会うことが出来ないかも知れない。そう思うと、今がその時なのだと思わずにはいられなかった。

 ふぅっと小さく息をついてから、カナンは大きく息を吸った。


「あたし……トゥラン皇子のことが好きです」

「え?」


 やけに長い────もしかしたらほんの一瞬だったかもしれないが────沈黙のあと、抱きしめられていた。

 トゥランはカナンの肩に顔を埋めているのか、耳元に熱い息がかかる。


「不意打ちは……ずるいな」


 笑みが混じったような、ため息のような声だった。

 顔を上げると、黒曜石のように煌めく瞳がすぐ目の前に見えて、その瞳に促されるように、カナンは目を閉じた。


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