第27話 形見の指輪


 翌朝早く、トゥランとヨナは蘭夏ランシァへ向けて旅立って行った。

 カナンは屋敷の門の前に佇んだまま、遠くなる馬影をいつまでも見送っていた。


 嵐のようにやって来て、嵐のように去ってゆく。

 トゥランは滞在期間わずか三日でアロンをしっかりと撃退し、カナンの心まで奪っていったのだ。


「はぁ~」


 物憂げなため息をついて、カナンは左手の中指にはめられた金の指輪を見つめた。

 昨夜、朔月の下で口づけを交わしたあと、トゥランから贈られたものだ。

 中央に丸い花の印章。その印章の周りを赤い八個の宝石が囲んでいる華やかな指輪だ。


『────これをおまえにやる。絶対に失くすな。母の形見だ』

『そっ、そんな大切な物は受け取れません!』


 トゥランの母と言えば、あの皇帝の寵姫であり、それを理由に現皇后によって殺された悲劇の人である。当然のごとくカナンは指輪を返そうとしたのだが、

「大切な物だからおまえにやるんだ」と、押し切られてしまった。


 別れ際にカナンを強く抱きしめたトゥランは、耳元でこうささやいた。


『俺と連絡を取りたい時は、手紙の表にその指輪の印を押して大陸郵便に出せ。俺の配下が俺の元まで送ってくれる』


 その言葉で、カナンの心はパッと明るくなった。

 トゥランに連絡を取れる唯一の手段は「鳥」だと思っていたのだ。その鳥の貸し出しを断られ、今後何があっても、彼に連絡を取ることは出来ないのだと諦めていた。


 これで、カナンにとっての一番の懸念事項が解消された。

 まるでトゥランに背中を押してもらったような気さえする。


(さぁ、ぐずぐずしてはいられない。腹を決めたんだから、あたしはあたしのやるべき事をやるだけだわ)


 口元に不敵な笑みを浮かべて、カナンは振り返った。


「キース。あなたも今日中に船に戻るんだっけ?」

「ああ。俺たちも、明日の朝出航だからね」

「じゃあ、船まで送って行くわ!」



 〇     〇



 その日の昼過ぎ、カナンはキースを送ると言って出かけてしまった。

 いつもならついていくトールだが、今日は黙ってカナンを見送った。

 ある種の、のようなものが働いたのかも知れない。

 自分の部屋に戻り、トールは何の気なしに衣装タンスの扉を開けた。すると、そこにあるはずの物が消えていた。


「カナンに貸した俺の服────」


 もう小さくて着られなくなった服をとっておいたのは、釣りをする時にカナンが着ると思ったからだ。実際、アロンから逃げ回っていた時にも活躍した。

 確か上下合わせて三着ほどとっておいたはずだった。


「やっぱりな!」


 何となく感じていた違和感の正体を、トールは今、はっきりと確信した。

 念のため、カナンの部屋に忍び込んで引き出しや棚を開けて回った。


「間違いない!」


 納得の笑みを浮かべたトールだが、すぐに不満げに唇を尖らせた。


(何で俺に相談しない?)


 キースが来てから、カナンの様子が少しだけ変わった。

 二人で話をしている姿を何度か見かけたが、いつもの二人らしくない雰囲気がトールの関心を引いた。

 トゥランのことを相談しているのかとも思ったけれど、それにしてもおかしかった。

 一言で言うなら、それは緊張感だ。久しぶりに会っただけのカナンとキースに、そんな張りつめたような会話があるだろうか。


(何で……ひとりで行動するんだよ?)


 幼い頃から金魚のフンのように後ろをついて来ていたカナンとは、何をするのも一緒だった。兄たちを落とし穴に落とす計画をした時も、使用人たちにちょっとしたいたずらを仕掛けた時も、悪ガキたちとケンカした時も、二人は一緒だった。

 物心つく前から、ずっと、トールとカナンは良い相棒だったはずだ。


(俺が、おまえの邪魔をするとでも思ったのか?)


 もしそうなら、それは許しがたい思い違いだ。

 トールは自分の部屋に戻ると、必要最低限の旅支度を始めた。日持ちする食料に、着替え。身を護るための武器も欠かせない。怪我の万能薬もだ。

 幸いなことに、父とサウォルはここ数日滞っていた領地の仕事で忙しく、トールの動きを不審に思う者はいなかった。


 小さな鞄を背負って、その上から外套を羽織った。

 こっそり屋敷を抜け出したトールは、最後に、別れを惜しむようにシン家の屋敷を振り返った。


 生まれてこのかた、トールは南部を出たことがない。国のことも世界のことも、学校で習っただけの薄っぺらい知識しかない。一番自信のある剣の腕も、井の中の蛙である可能性は捨てきれない。自分がついて行っても、何の役にも立たないかも知れない。

 それでも、カナンを追わない選択肢はなかった。

 トールは迷いを振り切るように、港を目指して走り出した。


 正直なところ、カナンが何をしようとしているのか、トールはわかっていなかった。

 確かにカナンは無謀なところがあるし、突拍子もない行動をとることがあるけれど、ただのお転婆娘ではない。カナンのする事にはいつもちゃんとした理由があった。


(だから止めない。でも、ひとりじゃ危ないじゃないか!)


 妹を守る。ただその為だけにトールは走った。



 かつてのトールは、王都へ行って武人の道を目指すか、領地に残ってサウォルの手伝いをするか、自分の未来はその二つしかないと思っていた。

 そのどれでもない未来へと、トールは今、足を踏み入れようとしていた。



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