第13話 書簡
私室に戻ったユーランは、そのまま庭に面した窓辺に歩み寄った。
職人が匠の技を注いで作り上げた硝子の一枚板の向こうには、薄闇に包まれた庭園が広がっている。
宮の建物に三方を囲まれた庭園の中央には細長い池があり、
「もう一度ぬけ出す……か」
ユーランは、先ほどの侍女が言った言葉を呟いてみた。
カナン王女の侍女だというあの娘は、皇太子である自分に臆する事なく、とんでもない提案をしてきた。恐らく、それがどんなに難しい事か知らないのだろう。無知ゆえの言葉に呆れる反面、面白いと思った。久しぶりに興じている自分に、心が沸き立った。
(そうだ。私が水龍の王女に求めていたのは、あの娘が言ったような下らない言葉だったのかも知れない……せっかく面白い娘を見つけたと思ったら、よりにもよってトゥランのものだったとは…………)
林の向こうに人影は見えない。二人はとうに離れ宮に入って、先ほどのようにじゃれ合っているのだろう。そう思うと胸がもやもやした。
「ん?」
ふと、ユーランは眉を顰めた。よくわからない違和感が胸に湧き上がる。
トゥランは一年前、カナン王女に求婚したが、きっぱりと振られている。
彼があの侍女にいつ手を出したのかは知らないが、
違和感の先にささやかな疑念が生まれる。
「あの娘、まさか……」
頭に浮かんだ仮定は、考えれば考えるほどあり得ることのように思えてくる。
「────失礼いたします。夕餉をお持ち致しました」
二人の侍女が盆を捧げ持って入って来た。
窓辺に立ったままユーランが見ていると、侍女たちは手際よく料理の乗った皿を卓の上に並べ、最後に金の飾り紐でくくられた書簡を置いて壁際に下がった。
「それは?」
「先ほど正殿より使いが参りました。皇帝陛下からの書簡でございます」
答えたのは不愛想な吊り目の侍女だ。彼女はこの皇太子宮にあって、唯一ユーランの色香に惑わされない貴重な侍女だ。
「父上の……わかった。下がって良い」
「はい」
二人の侍女が一礼して部屋を出て行くと、ユーランは卓の前に座った。
不快な物でも見るように眉間に皺を寄せながら、書簡をそっと手に取る。金色の飾り紐を引き抜き、素早く広げた途端、彼はグシャリと書簡を握りつぶした。
指の関節が白くなるほど強く握りしめた手は、怒りのせいかブルブルと震えている。
(父上は……いったい、どういうおつもりか……)
ギリっと強く噛みしめた唇から、紅い雫が一筋流れた。
〇 〇
二人の侍女は
夕餉の膳を下げる役目はユーランの目に止まる確率が高い。日々の役目は交代制になっているが、うかうかしていると横から役目を取られる恐れがある。なので、当番の侍女たちは厨で待ち構えていて、速やかにお盆の受け渡しを行う。
相方の侍女が名残惜しそうに手渡したお盆を目で追っているのを横目に見ながら、サラーナは厨から離れた。
今日の仕事は夕餉の配膳が最後だ。他の侍女たちは互いに牽制しながらも、一目でも多くユーランの目に止まろうと居残っているのが常だが、サラーナはいつも仕事が終わるとすぐに自室に戻る。
今日は気が急いて、いつもより速足で戻る。部屋の戸を後手に閉めるなり、サラーナはホッと息をついた。
「危なかった……」
無表情には自信がある。だが、さすがのサラーナも、今日ばかりは平然と勤めることが難しかった。すべてはあの書簡のせいだ。
正殿の使いから、皇太子宛ての書簡を受け取ったのはサラーナだった。周りに誰も居なかったのを良いことに、衣裳部屋の隅でその書簡を盗み見た。
『明後日、水龍国の王女を正殿に連れて来るように』
書簡にはただ一行、そう書かれていた。
(カナン王女が正殿に行く……恐らく、皇太子自ら案内することになるだろう。もし王女の一行に随伴することが出来たら────皇帝に近づける千歳一隅の好機になるだろう)
期待のあまり、鼓動が苦しいほど早鐘を打つ。
胸に手を当てて鼓動を落ち着かせようとしていると、ふと、つい先日、一緒に桃をかじった年若い侍女の顔が頭に浮かんできた。
明るく溌溂とした、物怖じしない向日葵のような娘。サラーナが失ってしまった輝きがあまりに眩しすぎて、自分から距離を置いてしまった。
(王女の供として、あの子も来るのだろうか……)
出来る事なら来ないで欲しい。恩人であるあの娘を面倒事に巻き込みたくはない。
サラーナは苦しそうに目を閉じてうつむいたが、ややあって諦めたように首を振った。
何があってもこの好機だけは逃す訳にはいかない。
(すまない、ハルノ……)
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