第7話 揺れる心


 パチパチと薪が燃えている。

 聞こえるのは岬に打ち寄せる波の音と、向かい側の長椅子から聞こえるトールの規則正しい寝息だけ。

 そんな心地よい音に包まれながら、カナンはいつまで経っても眠れずにいた。


『────そんなに感謝してるなら、何かお礼をしてくれ。言葉じゃないお礼だ』


 何度も何度も繰り返し耳に蘇るのは、トゥランの声だ。

 あの時彼は、本当に、カナンにキスを求めたのだろうか。いつも好き勝手に、強引な口づけを落してくるあの人が。


 確かに、カナンが南部へ招待すると答えると、トゥランは「それがおまえのお礼なのか?」と吹き出していた。もしも本当にトールの言う通りなのだとしたら、彼はカナンの的外れな答えに笑ったのだろう。


 実際、あの日も別れ際に唇を奪われた。あっという間の出来事で、カナンはいつも防ぐことも逃げることも出来ない。


(でも……)


 月紫国ユンシィを出立する日、トゥランは姿を見せなかった。彼に会ったのは、前夜に鳥籠を渡された時が最後だ。その時だって特に別れを惜しむ様子もなく、さっさと帰ってしまった。


 わざわざカナンに鳥を預けたのだから、南部へ来るつもりはあるのだろう。でも、彼はユーランたちを連れて南の属領に戻り、各自治領の掌握に忙しくしているに違いない。

 一週間ほど前に訪ねて来たサラーナとゾリグからも、そんな話を聞いたばかりだ。


(兄さまたちは、トゥラン皇子があたしに惚れてるって言うけど、揶揄からかわれてるだけかも知れないじゃない)


 カナンはプクッと頬を膨らませた。

 あんな風に気軽に女性に手を出せるトゥランのことだ。きっと他の女性にも、カナンにするようなことをしているに違いない。

 そう思えば思うほど、何だか無性に腹が立ってくる。


(……嫌だ、あたしったら、何で怒ってるんだろう?)


 カナンは一度だって、トゥランの言葉を本気にしたことはない。

 この状況下でもしもトゥランが来てくれたら「アロンを撃退できる」とは思っていた。けれど、本当に彼と結婚するなんて考えた事はない。


 そもそも、彼の言う「俺が次期皇帝の座を奪ったら、おまえを嫁に貰ってやる」が実現するとは思えない。実際に皇帝に会った今、その思いは確信に近い。

 いくらトゥランでも、あの恐ろしい皇帝に逆らうのは無謀としか思えない。


 月紫国滞在中は、ユーランを逃がすために、カナンもトゥランの画策に加わってしまったけれど、あの時ユーランが返上した皇太子の座は、彼の弟のイェルン皇子が正式に継いでいる。そんな状況で、トゥランに何が出来ると言うのだろう。


(べつに……トゥラン皇子のことなんか心配してないけどさ!)


 ただ、彼が投獄されたり、処刑されたりする姿は見たくない。もちろん、サラーナやユーランたちもそれは同じだ。彼らは恐らく、トゥランと一緒に行動を起こすつもりだ────。


 この件に関して、カナンはいつになく悲観的だ。

 みんながあの皇帝に歯向かって殺されてしまう未来を、時々想像してしまう。

 そうなってしまった時、カナンには誰一人助けることが出来ない。それどころか、あおりを受けたこの水龍国スールンさえ、きっと守ることが出来ないだろう。


 自分には何の力もない。いざという時、どう動けばいいのかすらわからない。

 今のカナンは、意に沿わぬ結婚話を断ることも出来ずに、ただアロンから逃げ回ってるだけの情けない娘なのだ。そんな自分が国際情勢を心配するなんて、余りにもおこがまし過ぎる。


(ハァー)


 カナンは深いため息をついて毛布にくるまった。

 眠ろうと目を閉じても、やっぱり眠気はやって来ない。


(あたしは、どうしたらいいんだろう?)


 アロンとの結婚話も問題だが、これからの国際情勢の方がより重大な問題のような気がする。


 月紫国から水龍国へ向かう旅の間も、帰国してからも、トゥランの企みを国王に話すべきかどうか、シオンやジィン、ナガルたちと何度も話し合った────その結果、静観することに決まった。


 私たちは何も知らない。何も聞いてないをするのだ。


 もしも国王や、シオンの代わりに王太子となったユジン王子、その他の重臣たちがこの話を知ってしまえば、それがどこからか漏れて月紫国へ伝わらないとも限らない。そうなれば、まだ起こるかどうかも分からない情報で、トゥランは皇帝に処刑されてしまうだろう。


 それは出来ない────とジィンは言った。


 カナンも同じ気持ちだった。でも、トゥランの企みは着々と進んでいる。サラーナとゾリグが実際に語った言葉は少なかったが、そうとしか思えなかった。

 その時の会話はカナンしか知らない。まだ誰にも話していないからだ。


(手紙はだめね。誰かに見られる危険があるもの。今度、ナガル兄さまに会った時に話してみよう。いっそのこと、王都まで逃げてしまおうかしら。こんな所に隠れててもいつか見つかってしまうんだから……)


 そう考えてから、カナンは首を振った。


(ダメだ。万が一トゥラン皇子が来たら……大騒ぎになるわ。ああ、でも、本当に彼が来たら……何をする気なのか聞き出せるかもしれないわね…………)


 だんだんと重くなってきた瞼が、ゆっくりと閉じてくる。

 カナンはどこか遠くにいるトゥランを心配しながら、ようやく眠りについた。

 パチパチと爆ぜる炎の音と、波の音を子守唄に。

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