1-8
本宮は、決して贅を尽くすほど裕福な家庭には生まれてこなかったが、人並みの生活に人並みの幸せな家庭で育った。
父は中小企業と呼ばれる企業の課長。母は専業主婦として家を守っていた。
そのなかで、一人っ子として育った本宮。
中小企業とはいえ、課長職である父を尊敬し、いつか自分も仕事に真面目に取り組んで、父のように人の上に立ちたい、そう思っていた。
母は絵画や写真が好きで、本宮の学校が休みの日にはよく本宮を美術館へ連れて行ってくれた。
もちろん、運動も好きだったが、母と一緒に美術館で過ごす、のんびりとして贅沢な時間は、本宮にとって何よりも癒しとなった。
「和也、美しいものをたくさん見なさい。美しいものは自分の気持ちを洗ってくれる。どんなに気持ちが滅入って、荒んでしまっても、綺麗な景色、美しいもの、人……、とにかく美しいものを見れば、少しずつ荒んだ気持ちは洗われて綺麗になっていくわ、綺麗なものを綺麗と思える、素直な心を持つのよ。」
いつも、本宮の母は本宮にそう言い聞かせてきた。
だから
本宮も母の言葉を信じ、出来るだけ自分が美しいと思えるものに触れることにした。
これが、本宮が写真家を目指したきっかけでもある。
「紹介するよ。この人、お父さんの会社の部下なんだ。みどりさんって言ってね。お父さんの仕事の手伝いを良くしてくれるんだ。」
ある日、父が家にひとりの女性を連れてきた。
会社の部下と言うその女性は、美しく物腰穏やかで、男性であれば誰もが憧れるであろう魅力を持っていた。
もちろん、みどりの魅力を母も感じ取っていたらしく、
「よろしくお願いしますね。本宮の妻です。」
……と、父には妻と子がいるんだという事をみどりに訴えているようにも見えた。
「話はいつも課長に聞いています。素敵な奥様で課長が羨ましいですわ。」
当初は、みどりは本宮の家庭には干渉しない、そう言った姿勢を見せていた。
だから本宮自身も、それほどみどりが来たことに対して違和感を感じてはいなかった。
……それが、間違いだった。
父は、みどりを家に招き入れた時点ですでに、みどりと関係を持っていたのだ。
では、なぜ父はみどりを自宅に招いたのか?
父はいつか母を追い出して、みどりと二人で暮らそうとしていたのだ。
そもそも、そう決めたのはみどりの入れ知恵なのであるが。
課長職である父は、それなりにいい家を建てていた。
ローン完済も間近。
そんな家に転がり込むことで、みどりは生活の安全を保証させようとしたのだ。
もちろん、それは父とみどりの勝手な計画。
母も本宮も、そんなことは一切知らされていなかった。
本宮の母は、夫を信じた。
夫が『部下』と言うのなら、そうなのだろう。
そう、母は思うことにしたのだ。
しかし、そんな母の夫への信頼は裏切られた。
みどりは、一度本宮宅に上がり込んだのを良いことに、それからは毎日のように家に上がり込むようになった。
名目上は、『課長の仕事の補佐』。
しかし、そのうち私生活に徐々に介入するようになり、そして母が不在の時にはふたりで家に滞在することもあった。
いつしか、本宮家の家庭には、みどりという異分子が常に紛れ込むこととなった。
それだけで、本宮家の悲劇は終わらなかった。
母が、父の不貞に気づいたのである。
しかし、母は専業主婦。
経済的に父に頼ってきている母は、疲れているのだ、きっとすぐに関係は解消されると、その場は涙をのんだ。
それでも、父とみどりの不貞は終わらなかった。
毎日のようにみどりは本宮邸に泊まり、そして深夜になると父とふたりで出かけていく。
帰りはいつも早朝。
母は、耐えた。
父を信じて。
しかし……。
父は、みどりと一緒に家を出たまま、帰ってくることは無かった。
「あの女さえいなければ、僕たち家族はいつまでも幸せだった。それなのに……、父はあの女の美しさに負けた。長い幸せをなげうって、女の魅力に負けたんだ!!」
母は、息子とふたり、残された。
しかし。母は前を向いた。
息子を守らなければならない。
裏切られたことは辛いが、いつまでも悲しんでもいられない。
息子は、自分の手で育てなければ。
息子を守れるのは、自分だけなのだ……。
そう、母は歯を食いしばり、これまで専業主婦だった身に鞭を打ち、仕事を探した。
父の収入はもうあてには出来ない。
家計をやりくりしていたからこそ、本宮と自分の生活のために最低どのくらい金が必要なのか分かっていた。
だから、母パートを2つ、迷わず入れた。
体力的にもギリギリ、それでも収入もギリギリ。
そんな生活の中、本宮には苦労を掛けまいと虚勢を張った。
「大丈夫、お父さんが貯金を残していたの。それを切り崩していっても数年は余裕で生活が出来るわ。何も心配することは無いわよ。」
そう、母が言っていた時に気付くべきだった、と本宮はいつまでも後悔していた。
それならば何故、母は働くのか?と……。
「なかなかまとまった金が稼げなかった母。そんな母に言い寄る男がいた。元、父の部下だった男……『あの女』の男さ。もともとあの女は父と一緒になるつもりはなかったんだ。父の役職をやっかみ、家庭をバラバラにして金を巻き上げてやろうと……父があの女と出会った時から、グルだったんだ。」
経済的に恵まれない母。
そんな母に手を差し伸べたのは、のちにみどりの恋人だと発覚する男だったのだ……。
母は言われるままに水商売へと手を出した。
生活はこれまでと比べて幾分か楽にはなったが、母の身体は徐々にやつれていった。
「今日は良いお肉買ってきちゃった。和也、たくさん食べなさい。いままでちゃんとしたもの、あまり食べさせてあげられなかったもんね。」
いつも、本宮が寝静まった後に仕事に出て、朝食の前に帰ってくる。
だから、本宮は母の仕事の様子を見たことが無かった。
彼が見る母の姿は、父も一緒に暮らしているときと同じ、優しい笑顔の母の姿だった。
しかし……。
「ごめんね、和也……。」
そんな母も、ついに倒れた。
ふたり分の生活費を賄うために
仕事で無理をしすぎたのだ。
そして、母が入院すると同時に、母の職場の上司は母を見限った。
仕事柄、収入は多かったので、貯金をうまく使うことで数年はやりくりが出来た。
しかし、母は入院中に、心労が原因で病室内で自殺をしたのだった。
遺書ともとれる書置きには、自分が騙されていたこと、そしてみどりと店のオーナーが繋がっていたこと。
父は、すでに消息不明だということ。
それを全て知り、耐えられなくなったという内容が綴られていた。
そして……。
みどりもまた、消息を絶ったということも。
「きっと、母はみどりに……あの女に復讐したかったに違いない。しかし、それはかなわなかった。だから……。」
その日から、本宮の心の中に『狂気』というものが生まれたのだった。
「僕は、それから写真家を目指すという名目で日本各地を回った。本当の目的は、父を、そしてあの女を探すためだ。そして俺は見つけた。ふたり仲良く暮らしていたよ。でも、かえって好都合だった……。」
本宮の表情に、邪気が宿る。
「あなた……もしかして……。」
ずっと静かに話を聞いていた司が、本宮の表情の意図を悟る。
「あぁ……そんなに仲がいいなら、地獄でやってろってね。」
「殺したのね……。」
そう、それは本宮の人生で初めての殺人だった。
「何度も何度も、地に頭をこすりつけて父も、あの女も僕に詫びていたよ。命だけは助けてくれ……ってね。でも、そんなの身勝手だ。母は必死に僕と生きようとした。でも、死んだ。理不尽な扱いを受けてね。だから……。」
本宮は倉庫の隅から1本の鉈を引っ張り出す。
その鉈はいったい何人の血を吸ってきたのだろうか?
刀身が赤黒く変色していた。
「ふたりの「許してください」という言葉が聞こえなくなるまで、切り刻んでやった。少しずつ、少しずつね……。次第に、許して欲しいから死にたくない、に言葉が変わったから、殺して埋めた。人間なんて、罪悪感よりも保身の方が結局大事なんだよ。」
「狂ってる……。」
「あぁ。僕はもしかしたら、最初から狂っていたのかも知れない……。」
本宮が、司に迫る……。
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