11-7
「この分だと、ゲームみたいに1人ずつ立ちはだかってくるパターンか?」
エレベーターへ向かう途中の通路。
侵入者は灰島含め、残り4人。
「まぁ、18階建てではあるけど、階段で行くわけではないからね……。立ちふさがるだけの道のりでもないでしょ。もし階段で行かざるを得ない状況なら、僕は残るよ~」
北条が、早くも息を切らし始める。
「警視総監・副総監の部屋が13階。出来ればエレベーターでさっさと行きたいなぁ。」
「そして出来れば、先回りしたい。」
現時点で侵入者は見えない。
建物の規模を考えると、もう侵入者達が副総監のもとにたどり着いてもおかしくない。
「すでに間に合わないってことはないよな……。」
虎太郎が不安げに呟く。
「こんなこともあろうかと、13階のエレベーター降りてから副総監の部屋までの防火扉、全部閉めてある。あとは10階でエレベーターが止まるようにセットした。皆も3階ばかり階段使ってもらうけど、頑張って。」
虎太郎の声を聞いていたのか、すぐに悠真が無線を飛ばす。
「古橋だ。こちらは外階段から10階に到着。SIT全員を動員し、13階までの警備に人を割いている。」
続いて古橋の声。
「おぉぉ……万全じゃねぇか!」
「やはり持つべきものは仲間、だねぇ。」
虎太郎と北条が安堵の溜息を漏らす。
「ほらほら、気を緩めない! 警備が万全ってだけで、まだ何も解決してないんだから。4人全員逮捕してから、気を抜きましょ!」
あさみはこういったミッションのプロフェッショナル。
最後まで気を抜かないよう、仲間達を促す。しかし自分の行った言葉を思い出し、申し訳なさそうに司を見る。
「あ、ごめんなさい……。」
あさみが逮捕すると言った『4人』。
そこには灰島も含まれているのだ。
「良いのよ。彼はそれだけのことをやって来たのだから。でも、出来れば私が引導を渡してあげたい。他の誰でもなく、私が……。」
かつての恋人が犯した、取り返しのつかない犯罪の数々。
司はその罪をしっかりと灰島に償って欲しかったのだ。
そして、いつか……。
(あのときの気持ちに偽りがなければ、いつか、きっと……。)
ここまでの連続犯罪、刑は決して軽くはないだろう。
しかし、それでも司は夢見た。
いつか、灰島と共に並んで歩く日が来ることを……。
「……それじゃ、尚更急がねぇとな!」
虎太郎が先を急ごうとした、その時だった。
「だがしかし、その意気込みもここで潰えることになるのだよ、諸君。」
突然聴こえたのは、老人男性の声。
そしてやや遠目に、老人と椅子に座る女の人影が見えた。
「出やがったな……。」
少しずつ、人影の方に近づいていく一行。
「そいつは、何か毒ガスみたいのを使っていた奴だよ!」
悠真が、無線でその老人の様子を話す。
「なるほど……『ドクター』って奴だな。」
虎太郎が、一気に飛びかかれるように距離を少しずつ詰めていく。
(毒ガスとやらを出す前に、一気に飛び込んで確保。コイツはこれで終わりだろう……。)
おそらく、身体能力自体は大したことは無いだろう。
それならば、いっそ強行突破という方法もある。
しかし……。
「いやぁ、良かった良かった。こんなに強そうな若者たちが集まっては、私などあっという間に確保されてしまうからね。『保険』を用意しておいて本当に良かった。」
老人は、虎太郎たち多人数相手でも、全く動じない。
「保険……だと?」
「ほら、もっと近くでよーく見てごらん。」
椅子に座った女性は、頭から大きな布を被せられている。
よく見ると、手足を椅子に拘束されていた。
「テメェ……人質か?」
「人質……いやいや、そんな卑怯な真似はせんよ。彼女は『協力者』だよ。時間稼ぎのね……。」
そういうと、老人……『ドクター』は女性に被せられていた布をそっと取った。
「お前……!!」
虎太郎の背後にいる稲取が、思わず声を上げる。
椅子に拘束されている女性は、警察の制服を着てる。
「一課の……佐倉だ。」
「佐倉って……確か、俺たちの同期の……本当だ……。」
虎太郎、香川とともに、その年の同期の中では成績優秀とされていた同期、佐倉。
女性ながらも犯人を恐れず事件の捜査に意欲的な姿から、一課でも一目置かれている存在である。
「稲取……さん?」
佐倉は意識を失っていたらしく、うっすらと目を開けると、焦点の定まらない目で稲取を探した。
「テメェ……佐倉に何をした?」
「この子、周りの警官たちが次々とやられているのに怯まなくてね……。ちょっとだけ『薬』を処方したんだよ。まぁでも安心していいよ。死なない量に調整してあるから。今のところは、ね。」
その顔面は蒼白。意識は朦朧としている佐倉。
明らかに危険な薬物を投与されているに違いない。
「あるんだろ……中和剤とか、解毒薬の類が。」
「あるにはあるよ。でもね、それをはい、どうぞと渡すわけにはいかないよね……。」
「それなら、高齢のところ悪いが、力づくで奪うまでだ。」
稲取が、一歩前に進む。
それを制するかのように、ドクターは足元の鞄から注射器を1本取り出した。
そして、懐から数本の小瓶を出す。
「この可愛らしく勇敢な警察官が死んでもいいなら……どうぞ。」
「お前……佐倉に何をするつもりだ?」
稲取の表情が険しくなる。
「何って……それはあなた方次第です。あなた方の行動ひとつで、私は彼女の人生を決める。ただそれだけのことですよ。ここに並んでいる5つの瓶は、とある薬品です。1本打たれたくらいでは死にませんが、2本、3本と増えるにつれ、徐々に致死量に近づいていき……5本目を打ったその時、致死量に至る、と。そういう仕組みです。」
「ふざけやがって……打つ前にとっつかまえちまえば良いじゃねぇか。」
「そうそう。そういう輩がいるだろうと思い、こちらには別の仕掛けを用意してあります。あなた方が私に危害を加えるとわかった時点で、私はこの足の装置を踏む。そうするとこちらの点滴が一気に彼女に流れ込む……。哀れ、彼女はもがき苦しみながら、やがて死んでしまう……。残酷ですよ、こちらの方は劇薬です。早く死にたい、苦しみから解放されたいと表情を歪め死んでいく様を見るのは……。」
笑いながら自身の造った装置についての説明を始めるドクター。
「ちっ……腐ってやがる……。」
虎太郎が吐き捨てるように言い、歯を食いしばる。
一気に飛びかかろうにも、ドクターに制止された位置からでは距離がありすぎる。
どれだけ強く踏み込んだとしても、ドクターが装置をひと踏みする時間には間に合わない。
「稲取……さん」
「佐倉!」
ようやく、はっきりと意識を取り戻した佐倉が、稲取を呼ぶ。
「私は……大丈夫。警察に入った時点で、事件で命を落とすという覚悟は出来てました。私の力不足が招いた結果です。私のためにみんなの命を危険にさらす必要はありません……。」
「馬鹿野郎! そんなこと言うな! 必ず助けるから!!」
「良いんです。稲取さんが無事に進んでくれるなら、それで……。」
佐倉が、笑顔を作り稲取に言う。
しかし、その様子を見た稲取は、なおさら佐倉のことを放ってはおけなかった。
「馬鹿野郎……そんなこと言ってお前……震えてるじゃねぇか。」
「うぅ……っ」
誰だって、目の前で死をちらつかされたら恐怖を感じるもの。
それでも佐倉は、自分のことを放っておけと稲取に言ったのだ。
「強いね……彼女。」
「あぁ……アイツ、意地っ張りで頑固だけどさ、俺たちの中で一番強かった。体力とか腕っぷしとか、そういう強さじゃねぇ。芯が強いんだ。」
稲取と佐倉のやり取りを見て、虎太郎と北条が話す。
「ちょっと待ってね。いま助ける方法を考えるから。」
「あぁ……俺も全力で助けるぜ。なんでも言ってくれ。」
「あなた……少し黙りなさい。死を恐れない人質など、意味を成さないでしょう?」
必死に死の恐怖と戦い、気丈に振る舞おうとする佐倉。
その姿が、ドクターには目障りに映ったのだろう。
怒りに満ちた目でドクターが佐倉を睨み付ける。
「五体満足で生まれた人間が、死を恐れないわけがないんです。痩せ我慢もいい加減にしなさい……。」
「……っ、それでも、私のことは構わずに先に進んで欲しい。あなたを逮捕して欲しい。こんな思いをする人間が、この先ひとりも生まれないように……!」
犯罪者には決して屈しない。
その姿勢を崩さずに、佐倉はドクターを睨む。
「この、小娘が……! 分かりました。いつまでそんな虚勢が張れるか、試してみるとしましょうか……。」
その凛とした姿が、ドクターの逆鱗に触れたらしい。
薬品の小瓶を2つ取り出すと、注射器にセットしていく。
「……!!」
佐倉の顔から血の気が引いていく。
「もう少しだけ、死に近づけておきましょうか……。間近になってくれば、生意気な口など利けないでしょう。」
ドクターの持つ注射器の針が、少しずつ佐倉の腕に近づいていく。
「テメェ! 佐倉を殺したら、お前のこと殴り殺してやるからな!!」
虎太郎が逆上し、ドクターに向かって叫ぶ。
「おぉ、怖い怖い。あなたに殴られたら死んでしまう。大丈夫……殺しはしませんよ。『まだ』。」
小刻みに震える、佐倉。
ドクターはそんな佐倉の腕に、無慈悲にも注射針を刺した。
「んっ!! ……うぅっ!」
薬品を打たれた佐倉が、小さく痙攣した後、ぐったりと項垂れる。
「佐倉! さくらぁ!!」
稲取が思わず前に出る。
「おっと、そこまでですよ。それ以上近づいたら、点滴を流します。」
ドクターの顔に余裕が戻った。
「あと3本。死への階段を40%上ったところですね。」
佐倉の死への無慈悲なカウントダウンが始まる。
「待て! 俺と取引しないか?」
それを止めたのは、稲取だった。
「取引……?」
「あぁ。お前の目的は、どうせ時間稼ぎだろう? 付き合ってやるよ。ただし……!」
「ただし?」
「……30分だ。30分の間、俺はお前の拷問を手を出さずに受けてやる。耐え抜いたら、大人しく逮捕されろ。俺が死んだら、あの狂犬がお前をボコボコにするから、気を付けてな。」
「では、意識を失ったら負け、と言うことでしょうか?」
「……それでいい。」
稲取は、前に進むと佐倉の拘束を解こうとする。
「勝手な真似は……」
「俺が、そこに座るよ。」
佐倉を解放し、そっと支える稲取。
「稲取さん……」
「大丈夫だ。俺を信じろ。……おい、ねぇちゃん、佐倉を頼む。」
稲取はそう言うと、佐倉をあさみに頼んだ。
「稲取くん、駄目だよ、危険すぎる!」
佐倉が座っていた椅子にドカッと音を立てて座り、稲取が腕を組む。
「大丈夫だ。俺はこう見えてしぶといんだ。それは北条さんも知ってるだろう? それに……」
まるで気合でも入れるかのように、稲取は胸ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえて火をつける。
「男だったら、引けない場面もある。そうだろう? 若造。」
稲取は虎太郎を見ると、不敵な笑みを浮かべた。
「……男だな、あんた。」
「当り前よ!!」
しかし、助けられた佐倉は必死に稲取を止めようとする。
「駄目ですよ稲取さん! 死んじゃいます!」
「平気だ。殺さねぇって言ってるんだから。」
「そんなの、方便かもしれないじゃないですか!!」
「まぁ、それもそうだな……でも、今ここで死んだとしても、それはそれで意味がある。」
「意味……?」
死という恐怖と隣り合わせの稲取。
しかし、その表情には笑みが浮かんでいた。
「おうよ。佐倉……お前を死なせずに済んだ。それだけでこの行動にはしっかりとした意味があるってもんだろ。目の前で死なれたら、こいつを逮捕したところで解決には出来ねぇよ。」
「稲取……さん!」
稲取の動じないその姿、そして決意と優しさに、佐倉は泣き崩れた。
「さぁてジジイ、さっさと始めろや。30分なんて、あっという間だぜ!」
その場にいる刑事たちが不安そうな目で見つめる中、稲取は袖を捲る。
「いい度胸です。敵ながらあっぱれです。」
ドクターは躊躇することなく、佐倉に注射したものとは別の薬品を注射器にセットする。
「多少の苦しみは覚悟しておいてください。こちらも命がかかっていますからね。」
「……望むところだ。」
そして、まず1本目の薬品が、稲取に投与された。
「……何にも起こらねぇな。」
「そんなにすぐに効果が出ては、面白みがないというものですよ。」
「そうのんびりしている暇はねぇだ……ろ?」
虚勢を張る稲取の言葉が、突然ゆっくりになる。
「……あ、あぁ……。」
「稲取くん!?」
明らかに様子がおかしい。
北条が稲取に駆け寄ろうと歩き出す。
そんな北条を、稲取は手で制した。
「だいじょう……ぶ。」
稲取の額には、脂汗が浮かんでいた。
「テメェ! なに打ちやがった!!」
虎太郎が怒鳴り声をあげる。
「まぁ、まずは向精神薬ですよ。致死量にならないようにだいぶ希釈してますけどね。それでも、意識を保っているのは辛いでしょうね……。」
小さな笑い声をあげながら、ドクターが次の薬品の小瓶を取り出す。
たった1本の薬で顔色が変わった稲取。
しかしドクターは躊躇いもせずに次の薬品を稲取に注射する。
「う……」
少しずつ、目が虚ろになっていく稲取。
「次は睡眠薬です。意識を失えばあなたの負け。なら眠らせても勝ち、でしょう?」
「……」
がくりと項垂れる稲取。
「稲取さん!!」
その様子を見ながら、佐倉が悲痛な叫び声をあげる。
「う……うるせぇなぁ。起きてるよ。ちょっと眩暈がしただけだ。」
稲取はゆっくりと体を起こすと、うっすらと笑みを浮かべた。
「な、なかなかしぶといですね……。しかし、その虚勢がいつまで張れますかな?」
ひとつ、またひとつと薬剤を取り出していくドクター。
稲取は全身汗まみれ。
老人であるドクターを相手に、もはや抵抗できない程に疲弊しいた。
「もう……目を開けているのも辛いでしょう? 常人ではもう、気を失うくらいの投薬なのですから……。」
ドクターが、稲取を嘲笑うかのように言う。
それでも、稲取は屈しなかった。
「ど、どうして平気でいられるのですか……。部下ではなくあなたが、あなた自身が死と直面しているんですよ?」
その堂々とした振る舞いが、逆にドクターを追い詰めていく。
「部下を……佐倉を見捨てるくらいなら死んだ方がましだ。それによぅ……。」
狼狽えるドクターに、稲取はニヤリと笑って見せる。
「これ、塩水でも打ってんのか? あと何本打てば、俺はゆっくり眠れるんだろうなぁ、おい。最近はお前達の起こした事件のせいで、全然ゆっくりできてないんだ。さっさと眠らせてくれよ……。」
本当は限界に近い状態。
それでも不適な笑みを稲取は浮かべると、鍛え上げられた太い腕をドクターに差し出した。
『次の薬はまだか?』そう言わんばかりに。
「死に損ないが生意気な……!!」
この行動で、ドクターの頭に完全に血が上った。
「これで、終わりにしましょうか。」
わなわなと震える手で、次の小瓶を取り出す。
その表情は、怒りに満ちている。
「あれは……!」
その小瓶に入れられている薬剤の色を見て、北条の顔色が変わった。
「あれ……覚醒剤じゃないかい?」
見守る一同の表情が強張る。
「睡眠薬、筋弛緩剤に併せて覚醒剤……それはまずいよ、下手したら……!」
あさみも、その状況に青ざめる。
「やめて……稲取さんが、死んじゃう!」
佐倉が悲痛な叫びをドクターへ向ける。
しかし、ドクターの意思は変わらない。
「もう充分、時間稼ぎはしましたからね。どのみち私には逃げ切る体力もありません。ならば、この愚かな死に急ぎを殺して、お縄につくことにしましょう……。」
完全に吹っ切れた。
そんな表情で、ドクターは『最後の小瓶』を見つめた。
(あぁ……長いようで短い一生だったなぁ……。こんな終わり方で、本当に良かったのか?)
朦朧とする意識の中。
視界の端にドクターを見ながら、稲取はこれまでのことを思い返していた。
(たぶん、あれを打たれたら俺は死ぬんだろうな……。悔いがないと言えば、嘘になるが……。もう少し昇進したかったな。もう少し、家族との時間を取れれば良かったな……。)
息子を亡くし、妻とは仕事の関係で顔を合わせない日々が続いた。
やがて会話も愛情も減っていき、妻は愛人と共に家を出ていった。
文字通り天涯孤独の身となった稲取。
そんな彼のもとに現れたのは、息子が生きていれば同じくらいの歳になるであろう、若手刑事であった。
理論派で、身体をなかなか使おうとしない青年と、何でも無理をして首を突っ込みたがる女性。
そんなふたりの危なっかしさが、どうしてか息子と重なってしまったのだった。
香川と佐倉。
未熟な若手ふたりを育てることが、いつしか稲取の楽しみになり、生き甲斐になっていた。
そんな香川は『神の国』の人間だった。
あと少しでまっとうな道に引き戻してやれる、そんな矢先に銃弾により命を落とした。
そして、佐倉はそんな『神の国』の幹部によって命の危険にさらされたのだ。
ドクターの持つ注射針が、少しずつ稲取の腕に近づいていく。
(なーにが『神の国』だ……。俺の『子供』ふたりも危ない目に遭わせて、ひとりは殺しやがって……。神は人を救うんじゃねーのか?)
込み上げてくる怒り。
近づいてくるドクター。
稲取は、最後の力を振り絞り、ドクターを睨み付けていった。
「先に……地獄で待ってるぜ。テメェが来たら……地獄より辛い目に遭わせてやるからな……!!」
その、鬼のような形相。
死を目前にして怯むことの無い稲取の、貫くような鋭い視線に、
「………ひぃっ!」
一瞬、ドクターが怯んだ。
「……お前となんか会うものか! 無様に独りで死ね!」
押し寄せる恐怖感を振り払うように首を振ると、ドクターが一気に注射針を稲取に近づける……。
(じゃぁな。お前達は、生きろよ!)
目を閉じ、運命を受け入れようとした稲取だったが……。
「そこまでだ。」
それを止めたのは、虎太郎だった。
「なっ……! 約束が違う!」
邪魔が入ったことに憤るドクター。
しかし、虎太郎はドクターの腕を力一杯掴み、注射器を床に落とした。
「貴様! 近づいたらこの男を殺すと言ったはずだ!」
虎太郎に詰め寄るドクター。
しかし、虎太郎は表情ひとつ変えない。
そして……。
「お前の、敗けだよ。」
冷たくドクターに言い放った。
「私の……負け? ここまで彼を追いつめて、私のどこが負けだと?」
虎太郎に腕を掴まれながらも、必死に抵抗するドクター。
しかし、その理由はすぐに分かることとなる。
「時計……見てみろよ。」
虎太郎が、自分の腕時計をドクターの目の前に出して見せる。
時計の針は、稲取が指定した30分を、2分ほど過ぎたところだった。
「まさか……あれほどの薬を受けて、30分持っただと……?」
完全に、ドクターの誤算であった。
確実に意識を奪うことの出来る順番、そして用量。
これまで長く医師という職に就いていたドクターだからこそ分かる、薬剤の効果と、その効果が表れるまでのおおよその時間。
ドクターの見立てでは、20分で稲取は意識を失う予定だった。
稲取でなくとも、20分あればたいていの人間は意識を失う、そう確信していた。
しかし、稲取は耐えた。
「一体、何が彼をそこまで……。」
そう、薬は人体に確実に影響を及ぼすもの。
良い効果の薬も、悪い効果の薬も例外なくだ。
その薬の効果に耐えるものなど、人間離れした精神力の持ち主か、あるいは用法を守らず薬を多量接種する愚か者か、どちらかなのだ。
「あの人は、ただ単に強いだけだよ。佐倉を助けたい、守りたい……その一心で、あの人はテメェの卑劣な攻撃に耐えたんだ。」
その頃、北条とあさみが稲取を解放し、床にそっと横たえる。
「稲取くん!!」
「全く無茶して……!」
あさみが近くの事務所から水のペットボトルを拝借し、稲取に無理やり飲ませる。
薬の効果を薄めるためである。
「あぁ……」
稲取が、呻き声とも溜め息ともとれる声を上げる。
「稲取さん!! 稲取さぁん!!」
そんな稲取に覆いかぶさるように、佐倉が泣きじゃくる。
「さく……ら、無事か?」
「はい……! 稲取さんに助けてもらったから……」
「苦しくないか? 痛いところはないか?」
「もう……稲取さんの方が重症……」
多数の薬物を注射されたことで、稲取は動くことも出来なくなっていたが、話すことは出来るようだった。
「何とか、大丈夫そうだよ。」
北条が、虎太郎に稲取の様子を知らせる。
「そうか……良かった。」
安心した虎太郎。
するとすぐにドクターの服の襟を締め上げる。
「ごほっ! な、何を……」
「俺はよ……刑事にしてははみ出し者でよ。犯人を丁重に扱うことは出来ねぇんだわ。」
左腕でドクターを締め上げたまま、空いた右手の拳を固く握る虎太郎。
「俺、言ったよな? 『一発殴らせろ』って……」
「……!!」
ドクターは、その虎太郎の鋭い視線に、彼が冗談を言っていないことを察した。
「や、やめて……助けて。」
「……俺はテメェが殺したいほど憎い。でも、自分で言ったことだ。1発で許してやるよ!!」
虎太郎は、固く握りしめた拳を、力任せにドクターの鳩尾に叩き込む。
「か……はぁ……っ!!」
その一撃で、ドクターは気を失うのであった。
「たった1発でこれかよ。『誰かさん』と違って根性ねぇなぁ。」
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