2-7

姉崎 里美。

ごくごく普通の家庭に生まれ、ごくごく普通の人生を送ってきた。

中学も高校も、特に厳しい受験を必要としない学校。

友達もそれなりに多く、学校生活も順風満帆だった。



人生の転機は、高校3年になって訪れた。

年の離れた妹が、病気でこの世を去ったのだ。

歳が離れていたため、常に一緒というわけでもなかった姉妹。

里美が多感な時期にまだ妹は幼く、一緒に遊んであげることが出来なかった。


それ故か、『もっと子供と触れあい、接することのできる仕事に就きたい』という気持ちが、里美の心の中に芽生えたのである。


普通に私立の女子大に通おうと勉強してきた里美は、ここで進路を変更する。

保育士過程のある大学を目指したのだ。

突然の進路変更に、両親も進路指導の教師も慎重になるよう説得したが、それでも里美の気持ちは揺らがなかった。



必死に勉強をした結果、里美は日本でもレベルの高い、東京の大学に合格する。

もちろん、就学中に保育士の資格も取れる大学である。


『妹に出来なかったことを、子供たちに沢山してあげたい』


その一心で、里美は周りの友達が遊ぶ時間も勉学に励んだ。

そして、なんと里美は首席で卒業を果たす。

有名大学を首席で卒業したことで、里美の就職先は引く手あまただった。


その中でも、里美は子供たちと接する時間の多い、子供のための環境の整った幼稚園を選んだ。

収入が高い園はもっとたくさんあったが、いま務める幼稚園が、いちばん里美の理想に合う場所だったのだ。



「これで、あの子に出来なかったことをたくさんしてあげられる……。」



里美にとって、人生で一番の後悔は、歳が離れていたとはいえたった一人の妹を大切に出来なかったという事だったのだ。



里美は必死に働いた。

そんな中、2度目の転機が訪れる。



両親が、旅行先で交通事故に遭い他界したのだ。



家族でひとり残された里美。

失意の中で彼女は、ひとりの男性と出会う。


それが、戸村だった。



「先生、どうしたんですか?何か辛いことでも?」


園児を迎えに来た戸村は、里美の異変にただひとり気付いた。

他の誰も、里美の異変には気づかなかったのに。

気付かないように、平静を装ってきたのに。



「ひとりで抱え込むのも辛いでしょう?思い詰める前に話してくださいね。」



それは下心など無い、戸村の思い遣りの言葉だったのだろう。

しかし、その言葉に里美は心動かされたのは言うまでもない。


里美が出来るだけ周りに気付かれないように戸村に連絡先を渡し、園児の父親との禁断の関係が、この頃から始まってしまった。



はじめはメールのやり取り。

それが次第に頻繁になっていき、戸村が妻子と一緒にいない時間を狙って電話するようになった。


そして、さらにエスカレートした関係は、戸村が出張と偽って、里美の家に泊まるという不倫関係にまで発展した。


里美の献身的な性格、そしてどことなく憂いを帯びた佇まい。

『放っておけない』と思ってしまった戸村の気持ちは、優しさから次第に愛情へと変わっていった。


もはや里美と戸村は相思相愛。

何かと戸村は妻子に仕事と偽り会瀬を重ねていった。

そして、不倫関係も燃え上がる。



「ずっと、側にいて……。」


これまで控えめな人生を送ってきた里美が、初めて人にわがままを言った瞬間だった。


「あぁ、離れたくない……。」



戸村も、そんな里美の愛情に喜びを感じていた。のだが…………。


不倫という背徳行為。

それは長く続かなかった。

理由は、里美の妊娠。


里美は、愛する戸村との子を身籠ったことを素直に喜んだ。

しかし、戸村は違った。



「すまないが……子供は諦めてくれないか……。」


妻子には内緒の関係。

妻子の前では、戸村は仕事も育児も頑張る『良き父親』なのだ。

今の生活に、そして今のままの里美との関係に、戸村は満足していたのだ。



「私のこと……愛してないの?」



一方の里美は、ふたりの愛の結晶を諦めろと戸村が言ったことに、酷く心を痛めた。

もはや、里美だけは戸村との不倫関係を『割りきった付き合い』だとは思っていなかったのだ。



このときから、少しずつ里美と戸村との関係も綻び始めた。


毎日のように里美の家に通っていた戸村は、その回数を週1、2回に減らし、幼稚園の迎えも来る回数が減った。


『避けられている』

そう感じた里美は、戸村の家の近くに行き、戸村を呼び出した。



……現れたのは、戸村の妻だった。

ちょうど戸村が風呂に入っている時間だったようだ。

偶然見た戸村の携帯の画面には、



『幼稚園の先生』


と表示された。

それに違和感を感じ、無言で電話に出たのである。



夫との不倫関係を知った妻は逆上した。

そして、必死に戸村に会いたいと食い下がる里美を力一杯振り払ったのだ。


「もう、夫に会わないで!これ以上夫に付きまとうなら、幼稚園に訴えます!」


倒れ込んだ里美にそういい放つと、妻は自宅へと去っていった。

このとき倒れ込んだ衝撃で、里美は流産したのだった…………。



このときの話を聞いた戸村は、全てを妻に話し、許しを乞う。

妻は戸村を厳しく責め立てたが、戸村が反省していること、子供に対しては優しい父親であったことなど、家庭での姿を考慮し、今後このようなことがないようにと厳しく忠告した上で戸村を許した。


一方の里美は、お腹の中の子供を失った喪失感から、塞ぎ込むようになってしまった。

幼稚園にも休職届を出し、しばらく自宅に引きこもった。



ここで、この一連の不倫騒動が幕を閉じれば良かったのだが、もともと根が優しい戸村は、里美が休職していることに気づいてしまった。


その責任の一端が自分にもあると深く反省した戸村は、しっかり里美にも謝ろうと、里美の家を訪れたのであった。

その優しさが悲劇を生むとは、このとき誰も想像していなかった。



「今回のことは大変申し訳ないと思ってる。里美が無事で良かったけれど……妻にもバレてしまったし、もうこれまでにしよう。」


「そんな……私のこと愛してるって言ってくれたじゃない……」



「それは……家族は大切にするって言う前提でだよ。それは君も納得してくれていたろう?」



不倫関係。

大概は男が都合良く物事を解釈し、女はそんな男に入れあげる。

周囲にどれほどの迷惑がかかるかなど、不倫関係の男女にはどこ吹く風なのだ。


そして、そんな関係が終わりを迎えるとき、少なからず憎悪と言うものが生まれる。



「じゃぁ……もう私とあなたは他人同士、ってことね……」


「すまない……」



このとき、里美の心の中の憎悪と言うものが燃え上がったのだった。



「分かった……さよなら。もう……会わない。」


「ありがとう……。」



戸村は、これで全て終わった、そう思った。


「これで……終わり……。」

(どうしたら、どうすれば、一緒にいられるの……?)


しかし、里美は違った。

里美の心の中に『戸村を諦める』という選択肢ははじめから存在していなかったのだ。


気がついたら、包丁を握りしめていた。



(戸村さん……ずっと私の側に、いて……)



そして、次の瞬間……。

戸村は、床に横たわっていた。

おびただしい量の出血。

もう、助からないという事はすぐに分かった。

それでも、里美は取り乱すことは無かった。



「これで、ずーーーーっと一緒に居られるね……。」


自分には向けられなかった愛情。

だからせめて、その身体だけはずっと自分の側に置いておこう。

そう思って、里美は戸村の遺体を自宅の敷地に埋めたのだった。




しかし、それでも里美の心は満たされなかった。

自身が『人並みの幸せ』を何ひとつ手に入れていないことに気付いたのだ。


愛情も得られなかった。

愛の結晶だと思っていた子供は、愛する人には拒絶され、そしてその妻により駄目になってしまった。



「どうして私ばかり、辛い思いをしなければならないの……?」


いつしか、幸せな家庭に嫌悪感を抱くようになっていた。

幸せそうな家族を見ると、めちゃくちゃにしてしまいたい、そう思うようになった里美。

そんなとき、たまたま覗いた『闇サイト』で、女性でも簡単に人を殺せる方法と言う討論をやっていた。


その中にあったのが、放火である。


外傷を与えずとも、炎が全て燃やしてくれる。

就寝時を狙えば、その炎の速さから逃れることは難しい。

今の家屋で、消火器を常備している家庭は少ない。


道具を使えば、遠距離からでも火をつけられる……。



心が病んだ里美にとって、闇サイトの文言は魔法の言葉だった。

自分でも気づかない間に、闇サイト経由で道具を揃え、そして1件目の犯行に及んでいた。



1件目の犯行を達成した時、里美の目には燃え盛る家屋がまるで自分の新たな門出を祝うような花火のように見えたのだった……。


「そんなことで、あんなにたくさんの人を……。」


虎太郎が、拳を握る。



「そんなこと……?貴方に何が分かるの?愛されたことの無い、人並みな家族さえ作れない女がどれだけ悲しくて惨めなのか、貴方に理解できるっていうの!?」



虎太郎が呟いた言葉に、姉崎が逆上して反論する。

それでも、虎太郎は言う。



「いたじゃねぇか……アンタのことを必死に心配して、声をかけ続けた男がよ……。自分が何て言われようと、アンタのために動いてきた男が、いたじゃねぇか……。」



そこまで言うと、虎太郎は歯を食いしばる。

脳裏には深町が浮かんでいた。

必死に姉崎のことを考え、そして行動を起こそうとして、志半ばで命を奪われた、ひたむきで一途な幼馴染のことを。アンタは、そんな深町を……!!」



「深町……亮君がなんて……?」


一瞬、戸惑った表情を見せた姉崎。

その表情の変化を、北条は見逃さなかった。



「やり方は間違っていたかもしれない。でも深町君、彼はいつだって君のことを考えていたよ。君が間違った恋愛をしたときも、きっと相談に乗ってくれていたんじゃないかな?」


「亮……くん?」



姉崎は必死に自身の記憶を掘り起こす。



「きっと、いつだって寂しい時は声をかけてくれていたんじゃないかな?戸村に冷たくあしらわれたとき、酷いことを言われたとき……、深町君は話を聞いてくれていたんじゃないかい?自分のことなんかそっちのけで、きっと彼は君のことを考えてくれていたと思う。それはどうしてだと思う?ただの幼馴染だから?」



必死に考える姉崎に、北条は諭すように問いかける。



「君も、きっと戸村に同じ気持ちを抱いていたんじゃないかな?何かをしてあげたい、側に居てあげたい……、そんな気持ちだよ。」


「それって、まさか……。」



姉崎の表情が、みるみる青ざめていく。

北条が、ゆっくりと、そして姉崎にしっかりと聞こえるように言う。



「そう。君が求めた『愛』は、君が小さな頃からずっと側にちゃんとあったんだよ。手を伸ばさなくても届くような距離にね。」



姉崎の目に涙が溢れる。


「亮君……私、わたしはなんてことを……。」



膝から崩れ落ち、すすり泣く姉崎。

虎太郎はこのタイミングだと手錠を出し、姉崎に近づく。



「もう少しだけ、ね。」



北条はそんな虎太郎を手で制すると、手錠を虎太郎から受け取った。

虎太郎も、北条が言うならとそのまま見守ることにする。


「いいかい?人間はいつだって自分の思い通りに生きられるわけじゃない。時には辛いことも体験して、時には悲しいことも体験して大きくなっていくんだ。私だけが、じゃない。みんな、そういう思いをするんだよ。でも、生まれてきて生きている以上、独りじゃない。だれかしら、世界に一人くらいは必ず君のことを見てくれる人がいるんだ。それが、君の場合は深町君だった。気づくのが……遅すぎたんだよ。」



泣きじゃくる姉崎。

北条は、その隣にそっとしゃがんで姉崎に語りかける。



「戸村を殺してしまった事も、何の罪もない家族を殺してしまった事も、深町君を殺してしまった事も、僕は許すつもりはないし、同情するつもりもない。君のわがままで、可能性ある、未来ある人たちがたくさん死んだんだ。庇うつもりはないよ。しっかりと罪は償ってもらう。だからね……。」



北条が、姉崎の手をそっと取る。



「……そんな人たちの死を、しっかり背負って生きなよ。そして、深町が言いたかったこと、気づいて欲しかったこと、それを償いながらしっかりと考えるんだ。亡くなった人たちは、もう二度と生き返らない。しっかりと奪った命の重みを考えて、噛み締めて、そして……背負うんだ。優しいことは言わない。それが、犯罪なんだから。」



犯罪を犯した者の多くは、反省をして更生する。

しかし、一握りの犯罪者は反省もしないまま、自分を正当化し続ける。

北条は、自分が逮捕した犯罪者には、自分のしたことの重大さをしっかりと噛み締めて欲しいのだ。

もう二度と、悲しい犯罪が起こらないように……。



「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」


地に頭を擦り付けるように、謝罪の言葉を述べる姉崎。

北条はそっとその身体を起こすと、



「20時40分。戸村殺害・死体遺棄の現行犯、そして連続放火の容疑で逮捕するよ。……何か言いたいことは?」


「……ごめんなさい、私がやりました……。」



力なく、抵抗することもなく自分の罪を認めた姉崎。



「……うん。今はそれで充分だ。その他のことは、署でじっくり聞くよ。素直にありのままを話してくれれば早く終わる。罪を償うつもりなら……分かるね?」


「……はい。」


「……うん。」



北条は、優しく姉崎の手に手錠をかけると、自身のスーツの胸ポケットからハンカチを取り出すと、手錠が見えないようにそっと手首にかけた。



「さぁ、署まで連行して。もう罪を認めてるんだから、優しくね。」


「はい!!」


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