期待
慶喜はあれから、可能な限りCDを聴き続けている。
通勤時間中に電車の中で、就業時間中もずっと…気付けば勤務先の部屋は真っ暗で、彼以外に人がいなくなっていた。窓から外を見ると、とっぷり日が暮れており、夜景が見えた。どうやら就業時間になった事にすら、気付かなかったらしい。
それにしても良い職場だ、と慶喜は思う。ただ座ってCDを聴き続けているだけで仕事をしている事になり、金まで貰えるのだから。
慶喜は籍を置いている会社に、心から感謝した。
CDを聴き続けるためには金が要る。電気代、そしてプレイヤーなどの機器もいつ壊れるか分からない。
食事などは生命を維持する程度に摂取すればじゅうぶんだし、水も公園や公衆便所なんかで手に入れられる。しかし電気代はそうもいかないし、プレイヤーも性能の良いものを買いたかった。
生活保護でもじゅうぶんな気がしているが、今の生活でもCDを聴くうえで全く支障が無いため、クビになるまで、このままでいるつもりだった。
寝食を忘れてCDに聴き入り、気付けば朝になって目覚まし時計が鳴る。
最近は曲を中断させるのが嫌で、常に持ち運び用のプレイヤーで聴いているため、時計を止めると立ち上がり、プレイヤーで曲を聴きながら会社へ向かう。
歯も磨かず、顔も洗わず、服も着替えず。髭なんてもう、いつ剃ったか覚えていないし、風呂に入る事も忘れている。
町を歩けば、人々は化け物でも見たかのように驚いた顔をし、眉をしかめる。電車に乗ると、周囲は精一杯距離を置こうとした。しかしそんな事は、世間の目などはどうでも良かった。
慶喜にとって、このCDが奏でる曲を聴く事だけが全てなのだ。
ここ最近、いつ睡眠や食事をとったのか覚えていない。しかし全く空腹を感じないし、このCDを聴いている限り目も頭も冴えているように感じていた。
しかし曲に聴き入りながらも、慶喜は満たされない胸の内を感じていた。
あの日、
初めて聴いた生演奏は、CDで聴くものとは雲泥の差だった。あれを知ったら、もうCDでは満足できない。
――聴きたい…あの生演奏を、あの感動をもう一度、いや一度と言わずあれを毎日聴いていたい…
ショップ店員の話によれば、人間であれば誰が奏でても、同じくらいに素晴らしい曲を奏でるらしい。
しかも一人一人異なる曲で、同じものは一人としていないのだとか。
慶喜は人を見る度に、「あの人は一体、どんな曲を奏でるのだろうか」とそればかりを考えるようになった。
――全人類の奏でる曲を余す事なく、聴いてみたい
そんな、おおよそ叶うはずもない願望を、いつしか抱くようになった。
プレイヤーでCDを聴きながら、慶喜は外に出た。今が何時なのか分からない。七、八時かそれとも深夜か…とりあえず、空が暗かったので夜だと分かったのだが、彼には既に時間への関心も失われている。
何しろCDを聴いていると、時間というものを忘れてしまうのだ。気付けば時間が過ぎ、日が暮れ朝陽が昇り、目覚ましが鳴って職場へ行く。
フラフラと歩きながら、あのCDショップにたどり着く。看板が煌々と照らされ、開店している事が分かりホッとした。
店内に入ると、店員が待ち構えていたかのように、店内中央に立ち慶喜を見て微笑んでいた。
キャップを深く被り、マスクをしているが、三日月形に歪んだ目元が慶喜を嘲笑うかのように見ている。
「…少し、相談したい事があるのですが…」
店員は微笑んだままで「構いませんよ」と言い、慶喜を椅子のある場所へ促した。
木製の椅子に座り、机を挟んで店員と向き合う形となった。
席に着くなり、慶喜は店員が座るのも待たずに、中腰になって身を乗り出し、縋るようにして尋ねた。
「あのコンサートは…川西課長を連れて行った時のような、素晴らしいコンサートはもう行われないのでしょうか?!」
店員は何も言わず席に着くと、慶喜を眺めながら相変わらず、嘲るような目を向けている。
「駄目なんです…あのコンサートを経験してからというもの、音源だけでは満足できなくなった…音源も、もちろん素晴らしい事に変わりないが、それでも生演奏とでは比べ物にならない!あれを聴いてしまった後では…」
何かに取り憑かれたように、そうまくし立てる慶喜は目だけがギラギラと光り、店員にその目を向けてはいるものの、以前見たステージに立つ
慶喜の頬はこけており、毛穴の目立つ肌は垢塗れ。目玉が飛び出さんばかりにせり出て、ギョロギョロとしている。
風呂に入らず、衣服も洗濯していないので、常に腐敗したような体臭を漂わせている。
長い間歯を磨いていないので、歯茎は歯槽膿漏で赤く腫れ、膿でぶよぶよとしており、虫歯だらけの歯は所々が針のように細くなっている。
そんな歯の痛みも、CDを聴くと嘘のように無くなるため、歯科医へ行く必要が無い。
そして最近では、神経が死んだのか普通に痛みが無くなった。
口を開けば凄まじい口臭が漂うのだが、店員は平然としている。職場などでは、皆慶喜の体臭や口臭に、涙を浮かべながら鼻と口を覆うのに、店員だけは平気な様で、耐えている様子も無い。
しかし、今の慶喜にそれを気にする余裕は無かった。そもそも、あのCDを聴いて以来、周囲の目などどうでも良くなったのだ。
そして今の慶喜の頭は、あの夜経験した素晴らしいコンサートのみが占めている。
――あの夜の感動を、もう一度…いや、一度と言わず何度でも、毎日でも経験したい。
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