言葉
老爺が雄叫びをあげながら、斧を持つ手を振り上げる。垂れ目がくわっと見開かれ、その目が爛々と輝いていた。口角が上がり、開いたままの口から涎が迸る。
斧はチンピラに向かっていた。
「ひいっ」と叫んだチンピラが素早く避け、斧は畳に重い音を響かせ突き刺さる。
老爺は苦も無く斧を畳から引き抜き、再びこちらに向けて構え始めた。
アンモニアの臭いが鼻を掠めた。見ると、チンピラは失禁していた。体中がガクガクと震えており、立っているのがやっとに見える。まるでしがみつくようにして、バールを両手に持ち構えていた。
チンピラだけではない。慶喜もまた失禁していた。恐怖で体の震えが止まらず、どうしていいのか分からない。頭の中がパニック状態だ。
しかし、ここで死ぬわけにはいかない――しっかりしろ!あのコンサートを実現するんだろう?!と自分を叱咤する。そして突如、閃いた。
「しっかりしてください!五百億だか三千億だか知らないが、それの倍以上が手に入るんですよ?!五百億!三千億です!」
慶喜は震えて涙と鼻水だらけの顔になったチンピラに、必死に「五百億、三千億」と叫んだ。
チンピラの涙が止まり、目に再び光が戻る。体の震えも徐々に治まり、足腰に力が入った様だった。
それでも若干覚束ない足取りで一歩前に出て、バールを力強く構え老爺を見据えた。
――やった!そうだ、やれ!やるんだ!
慶喜は心の中で、チンピラに声援を送る。
「うおあああああああ五百億は俺のもんだああああ三千億ぅあああああ!」
叫びながらチンピラは、バールを振り上げ老爺に向かって突進した。
チンピラの体躯は、比べる対象が目の前の老爺でなくとも、見るからに貧弱で痩せぎすだ。
しかし、廃墟で慶喜の胸ぐらを掴んだ時の力の強さは、並みの男性以上であったように慶喜には思える。
ひょっとしたら、金が絡むと火事場の馬鹿力が出るタイプかもしれない。
チンピラがバールを手に突進してきても、老爺には全く動じる様子が無い。
先ほどと全く変わらぬ表情で、ニタニタ笑っている。
振り下ろされたバールは、ガチンという金属同士がぶつかるような音をたて、老爺の太い首に勢いよく落ちた。
老爺に変化は無い。体はピクリとも動いていないのだ。そして相変わらず、ニタニタと憎たらしい余裕の笑みを浮かべている。
チンピラは何やら喚きながら、続けて腹やら腕やら足やらにバールを振り下ろすが、結果は同じだった。
――この老人の体は、金属でできているのか?
「おい!頭だ!頭を狙え!」と慶喜は助言した。
どれだけ頑強な筋肉に覆われていても、頭部は別であるはずだ。頭部の筋肉は鍛えようがない。
老爺の視線が慶喜に向いた。
――え?…この爺さんて…
チンピラが再び叫びながら、バールを老爺の頭部に向かって振り下ろした。
しかしバールは老爺の頭部の少し上で停止。バールは老爺の片手で握られ、防がれたのだ。
チンピラは目を見開き、歯を食いしばってバールを振り下ろそうと力を込めているが、バールはビクリともしない。
老爺がニタニタ笑ったままで、慶喜の方を見た。
――この爺さん、言葉を解するのか?!
慶喜が「頭を狙え」と叫んだ事で、老爺はチンピラの次の行動を察したのだろう。
常軌を逸したこの老爺は、もはや言葉を解さない、人間ではない生き物のように見えていたが、そうではなかったのだ。少なくとも言語能力は残っている。
老爺が掴んだバールを振ると、チンピラは降り飛ばされ、崩れた砂壁に衝突した。
砂壁の、残っていた砂がザラザラ落ち、脳震盪でも起こしたのかチンピラは、目を白黒させながら首をグルグル回し、へたり込んでいる。
バールと斧を手にした老爺が、意識があるのかどうかも分からないチンピラに近寄って、バールを振り下ろした。
グチャという、何かが潰れる音と共に、チンピラの悲鳴が響き渡る。
気付くと、チンピラは横たわり、潰れた片足を抱えながら泣きじゃくっていた。
老爺の目は未だ、チンピラ一人に注がれている。老爺がチンピラをどうこうしているうちに、CDを探して逃げよう、と慶喜は思いついた。
泣きじゃくるチンピラに、老爺がゆっくりと近づく姿を後目に、慶喜はそっと部屋を飛び出し、2階へ続く階段を登った。一階には老爺たちの居る場所以外、他に部屋が無いのだ。
階段を登る途中、背後からチンピラの命乞いする声と、何かが折れたり潰れたりする音が聞こえてきた。
慶喜はなるべくチンピラが時間を保たせてくれる事を、そのために老爺が時間をかけて彼を殺す事、彼の体が頑丈でなかなか死なない様である事を願った。
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