全て

その日から、慶喜の生活はその名も知らぬ曲を中心に回るようになった。


CDのパッケージのどこにも、タイトルらしき文字以外何も書かれておらず、曲の詳細を知る術はタイトルだけだった。

しかし、タイトルに用いられたその言語は漢字でもアルファベットでもなく、見た事も無い模様のような文字だったので、キーボードで打ち込み検索する事もできない。


そこで慶喜はそのタイトルを撮影し、その画像をYahoo!知恵袋やSNSにアップしたが、分かる者は誰もいないようだった。

職場の者や友人知人、親戚にも尋ねたが、皆首を傾げるばかりである。


奏者もボーカルも、タイトルもどこの国の言語かも、何もかもが不明。

しかしその神秘性は、慶喜がこの曲をますます気に入る理由にしかならなかった。


初めて見た時から虜となったデザインのパッケージを、部屋のよく見える位置に飾り、部屋に居る時は常にCDをプレイヤーで回し続けた。

外出中も聴く事ができるように、スマホに取り込もうとしたのだが上手くいかない。スマホや機器に問題があるのではと思い、機器を代えてみたのだが結果は同様だった。


仕方なく、今時珍しいCDウォークマンを入手した。最初は電車の中や、職場での休憩時間中にそれで聴いていたのだが、曲に聴き入るあまり電車を乗り過ごしたり、休憩時間を大幅に過ぎて始業に遅れる事が多くなったため、この曲に聴き入るのは自宅のみに限定した。


自宅でも、仕事や約束事の前に曲を流すとやはり聴き入り過ぎて遅刻するようになり、結局何も無い日の休日や、一日の終わりにしか曲を流す事ができなくなった。


もちろん満足はできない。欲求不満が募り、慶喜の脳内は常に「あの曲をいつ聴く事ができるか」に支配されている。

仕事には身が入らず、友人恋人といても上の空。そもそも、仕事も友人や恋人も、あの曲を聴く事以外の全てがどうでも良くなった。


やがて友人は離れていき、職場では左遷されたが慶喜はそれを全く悲しい事とは思わず、むしろ曲を聴く時間が増えた事を大いに喜んだ。左遷先では仕事らしい仕事も無いので、ずっとプレイヤーでCDを聴き続ける事ができる。

その正体不明の曲は、今や慶喜の全てと言って良かった。


ある時、一緒にいても心ここに在らずな様子を見かねた恋人の陽介に問い詰められ、慶喜は彼を自宅に招いた。

部屋に入ると慶喜は速足でCDプレイヤーのある場所まで駆け寄り、壊れ物を扱うように丁寧に、しかし素早くCDをプレイヤーにセットする。

遅れて部屋に入って来た陽介が、後ろで呆れたようにその姿を見ていた。


演奏が流れ、甘美な歌声が始まる。慶喜は側に陽介がいる事も忘れて、うっとりそれに聴き入った。

曲が途中でピタリと止まり、現実に引き戻される。目を開くと、陽介がプレイヤーのスイッチを切っていた。陽介は心配と恐怖や不安の入り混じった表情で、慶喜を見つめていた。

しかし慶喜の心は、曲を中断された怒りでいっぱいだった。


「どうしてそんな事をするんだ?!お前にはこの曲の素晴らしさが分からないのか?!」


激昂する慶喜を前に陽介は後退り、不安と心配をますます増した顔になった。


「お前…おかしいよ。職場でもずっとプレイヤーで何かを聞いてて、肩叩いて声をかけても気付かないらしいけど…いつも聞いてるのって、このCDなのか?」


「ああ、そうだよ。今の職場は最高だ、ずっとこれを聴き続けていられる。それで金が貰えるんだからな。」


「お前、最近鏡見てるのか?髪は伸び放題でボサボサだし、服も着替えてないだろ。風呂にも入ってないんじゃないか?それにこの部屋だって…」


言いながら陽介が見渡した慶喜の部屋は、そこら中ゴミやゴミでないのか判別不能な物が散らばり、埃が舞っている。


「そんな事どうだって良いじゃないか。俺はそのCDが、その曲が聴ければ満足なんだ。」


慶喜が口を開くと何日も磨いていない、黄ばんだ虫歯だらけの歯が顔を覗かせる。歯茎は痩せて赤く膿んでいた。凄まじい悪臭がそこから漂ってくる。



「慶喜…お前…」


陽介は思いつめた顔になるや、プレイヤーからCDを取り出し両手に力を込めてへし折った。


ベキという鈍い音と殆ど同時に、慶喜の悲痛な叫びが部屋に響き渡る。


慶喜は膝と手をつき、四つん這いの姿勢で床に散らばるCDの残骸を見つめていた。

すぐ側で陽介が何かを必死に訴えかけている気がしたが、まるで耳に入らない。慶喜の目には、割れたCDの無残な姿しか映らず、彼の心はこの世の全てを失ったかのような絶望感に打ちひしがれていた。

失ったのだ、全てを。そのCDが奏でる音楽が、彼の全てだったのだから。







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