感謝

顔が血塗れの、横たわる依頼人に馬乗りになった状態で、英二はしばらく息をつきながら放心した様になっていたが、やがて昭三郎の方へ目を向け


「…すみませんでした。」


そう言って、頭を下げた。顔だけでなく、声まで無表情だった。疲労困憊しているためだろうが、とても誠意の伝わる謝罪とは言えない。


この依頼人はもしかしたら、昭三郎にとってお得意様かもしれない。そして料金も、まだ全て払われていないかもしれないのだ。


慶喜は昭三郎がどう出るのか怖くなった。何しろ、当たり前の様に殺しで金を稼ごうとする人間である。怒らせれば、何をやるか分からない。


しかし…と、慶喜はこうも思う。

ここに居るのは慶喜と英二、昭三郎と依頼人だけであり、昭三郎の従える者は一人も見当たらない。

依頼人は既に戦力外。二対一、慶喜達の方が優位に思える。


そんな事を考え、そんな悪くもない状況だと思い始めていたのだが、昭三郎の反応は意外なものだった。


「良いですよ、全然。むしろ口封じになって丁度良い。代金は既に全額いただいてますから。」


驚いて、思わず昭三郎の顔をまじまじと見たのだが、本当に怒っている様子が無く、あっけらかんとした笑顔である。


「そんな事より、せっかくだからこの二人を車まで運んでいただけませんか?すぐ近くに停めてありますので。」


更に続けて


「お二人に、見ていただきたいものがあるのです。きっと気に入ります。」


自信たっぷりにそう言う昭三郎の姿に期待を抱いたのか、疲労困憊してもう何も考えられなかったのか、慶喜達二人は言われるがまま、気絶した依頼人の体を運んだ。


その乗用車は数分も歩かぬ距離の所にあった。ナンバープレートを確認したのだが、ガムテープが貼られてある。

トランクに依頼人の体を放り込むと、昭三郎は二人に


「お疲れでしょうから、お二人は後部座席に座ってください。」


と言うので、ありがたくそのまま後部座席に転がり込み、ぐったりと寝入りそうになる。

車が静かに走り出した。昭三郎は運転がなかなか上手く、後部座席の座り心地が良い。

まどろんでいたら、あの曲が聞こえてきた。一体、何時間ぶりになるだろうか?ぼろ雑巾の様に疲れ果てた体、そしてささくれ立った心に深く染みていく。


しかしおかしい、なぜここであの曲が聞こえるのだろうか?昭三郎はあの曲の事を、知らないはずである。

運転座席に目をやると、昭三郎は全く普通に運転していた。あの曲が流れている中で、平然と運転できる人間などいないはずだ。


これは幻、いや違う…ミューズが見せてくれた、いや聴かせてくれているのだ。

こんなボロボロになるまで励んだ自分を労わり、褒美としてあの曲を聴かせてくれたに違いない。

慶喜はそう考え至り、納得した。


意識が曲の見せる幻の彼方へ導かれる中、慶喜は感謝の涙を流した。

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