破滅
「お久しぶりです」
そう声をかけただけなのに、その男はまるで化け物にでも遭遇した様な顔で慶喜を凝視した。
その男——慶喜が前に居た部署の課長は、慶喜がその部署を離れてまだ数か月しか経っていないのに、もう顔を忘れてしまったようだ。
「日村です、日村慶喜。ホラ、ちょっと前まで川西課長の部署に居た…」
仕方がないので慶喜が説明すると、川西課長はそれには動じる様子が無い。どうやら慶喜の事を忘れたわけではないらしい。
しかし相変わらず、異形の者でも見たかの様なこわばった顔をしている。
慶喜が左遷された事で恨んでいると考え、川西課長は怯えているのかもしれない、と思った。
とんだ取り越し苦労だ、慶喜は左遷された事をむしろ喜んでいた。
川西課長は慶喜との距離をなるべく取ろうとしており、周囲を気にしている様だった。夜9時の大阪駅周辺は人が多い。慶喜と一緒に居るところを知り合いに見られたくない、そんな風な様子である。
そう察したものの、慶喜の自尊心が傷つく事は無かった。彼の頭には今、ある目的を成功させる事しか無く、他の事は本当にどうでも良かったのである。
「課長、ちょっと相談したい事があるんです。お時間いただけませんか?」
慶喜がそう言いながら近づくと、川西課長は「うっ…」と眉をしかめて鼻と口を覆いながら、怯えたように後退った。
「す、すまないが、今日は急ぐんだ…」
「少しだけで良いんです!お願いします!」
慶喜は土下座するようにしゃがみ込んで、川西課長の足に縋りつき懇願した。
「お、おい!困るよ…早く立ってくれ!」
周囲の人の目を気にしながら、川西課長は小声でそう言い、しがみつく慶喜を何とか振りほどこうとする。しかし、慶喜は課長の足にしっかりしがみつき離れない。
「分かった!分かったから!もうやめてくれ!」
それを聞き、慶喜は立ち上がり「ありがとうございます」と礼を言って深々と頭を下げた。そうしながらも、川西課長の両手をしっかりと拘束し逃げられぬようにしておく事は忘れない。
川西課長は慶喜に握られた両手を、まるで汚物にでも塗れたものを見る目で見ていた。早く手を洗いたい、とでも思っていそうだった。
困惑する川西課長の手を慶喜はガッチリ掴み、グイグイと目的の場所へ強引に誘導する。
道の端で少し話を聞くだけなら…と考えていた課長は困惑しながらも、手を引かれるがまま付いて行った。
大声で助けを求めたり、声を荒げて暴れでもすれば、課長は慶喜から逃れる事ができたかもしれない。しかし川西課長には、まだ恥じらいや体裁があった。
人混みの中を進んでいったのだが、慶喜を見るなり皆、化け物にでも遭遇したかのような顔で素早く道をあけてくれたので、二人はスムーズに歩く事ができた。
歩いている間、川西課長はずっと俯き加減で、何を恥じらっているのやら、もしくは怒りを感じているのか、顔を真っ赤に上気させている。
待機している乗用車の前に来ると、後部座席のドアが開いた。そこに課長を放り込み、慶喜も乗り込むと、車はすぐに発進した。
車の中に居る間も、慶喜は課長の横にぴったりとくっついて腕を組み、逃げられぬよう警戒を怠らない。
川西課長は鼻と口を覆いながら、泣きそうな顔で小さく縮こまっている。
車は都会の喧騒を抜け、畑や田んぼばかりの道に出て、山道に入った。
課長の顔は真っ青になり、恐怖に引き攣り、目を白黒させている。殺されて山に埋められるとでも思っているのだろうか。
殺して山に埋めるなど、愚の骨頂だ。自分なら、山ではなく海に沈める。と慶喜は思った。
動物にも、誰にも見つからぬよう、土砂崩れなどで死体が発見されぬように、機械も使わず埋める事は困難極まりない。
海の底へ沈めた方が、見つかる確率は格段に低くなるだろう。
それはともかく、慶喜の目的は別に川西課長を殺す事ではなかった。彼には協力してもらうために、ここまで来てもらったのだ。
山道を曲がった先に2階建てくらいに見える、四角い建物が見えた。
その建物の門は開けっ放しで、夜闇の中にあっても錆びついているのが分かる。敷地内は雑草が生い茂っていた。おそらく廃墟だろう。
車はその廃墟の敷地内に停車した。途端に真っ黒だった廃墟にぱっと灯りが点き、扉から2人の人影が出てきて、車に速足で近寄ってくる。
2人の人影——黒いキャップを深く被り、マスクを装着、黒い上下の服を着た者たちは、後部座席のドアを開けて川西課長を引っ張り出し、廃墟へ引き連れていった。
川西課長は抵抗しなかった。慶喜と彼の協力者以外他に誰もいない、こんな山奥で大声を出そうと、抵抗して彼らの腕を振り払う事ができたとしても、逃げ切れるわけがないと諦めたようだった。
「なぜ彼を選んだのです?」
運転席から降りてきた、CDショップの店員が慶喜に尋ねた。
「たまたま遭遇したからです。俺は既に様々な人間関係を絶っていたので、頼れる人がいないと途方に暮れていたのですが…そしたらそこに、たまたまあの人が通りがかった。それだけです。」
「なるほど、彼は地雷を踏んだようなものですね。」
店員はそう言って、目を三日月型に細めて微笑んだ。
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