正気

それからずっと二人はCDに聴き入っていたのだが、またもやお嶋に揺り動かされ、現実に引き戻された。


現実に戻ったばかりの、ぼんやりとした頭と耳に、微かな鳥の声が聞こえる。開け放たれた襖からは、明るい陽の光が射しこんでいた。

いつの間にか夜が明け、朝がきていたらしい。


朝食後、掃除をするから、散歩にでも行ってくるようお嶋に言われ、慶喜たち二人は渋々外に出た。


ジャングルの様な藪根家の庭を、黙って何も考えずに歩いていたら、あっという間に出入口の門にたどり着いてしまった。

仕方がないので、そのまま外に出ると、やはり住宅街は閑散としており人っ子一人いない。

ただ耳をすませると、一軒の家から微かに音楽が聞こえてきた。思わず聴き入りそうになる、その曲に思わずはたとなり、慶喜はぶんぶんと頭を振ってその家から離れた。


「もし、旅のお方…」


いきなりしゃがれた声が聞こえて、その方を向くと、そこには川上の婆が一人佇んでいた。


慶喜は最初、目の前にいるのがあの、川上の婆だと気付かなかった。それくらい雰囲気がガラリと変わっていたのである。

よく分からない、色褪せた原色系の着物を始めとして、風袋は相変わらずである。

しかし表情が、目が全く別人の様であった。


常日頃、と言っても数えるほどしか遭遇していないが、川上の婆と言えば常軌を逸した目や口調である。

しかし今、目の前にいる川上の婆らしき人物は、非常に落ち着いて見える。目付きも、口調も。


その様な訳で、慶喜達は非常に困惑し、また気味悪くも思った。

常軌を逸した様子よりも、こうして落ち着いて見える方が遭遇して不安になるというのは、おかしな話ではある。


しかし川上の婆は、そんな二人の困惑に構わず、淡々と言葉を続けた。


「英さんが、あなたがたにお会いして、話をしたいとおっしゃっています。」


「英?!英って、あの…藪根家の長男、いや厳密に言えば次男の事か?!」


川上の婆は、静かに頷く。


「なぜ、彼が俺達に…」


川上の婆はそれには答えず


「きっと、お二方にとっても悪い話にはならないかと…」


そして、じっと二人を見て言った。


「今夜、再び床下扉の部屋へ足をお運びください。」


「…なぜ、それを」


驚愕する慶喜の横で、英二は何が何やら分からないという風である。

川上の婆はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けると歩き始め、気付くといなくなっていた。


「おい、床下扉って何の事だ?」


英二がそう問いかけている事にも気付かず、慶喜は暫くの間呆然としていた。





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