鎮静
恐る恐る歩を進めていくと、廊下の先にズボンを履いた男の足らしきものが見えた。足元は靴下のみで、もちろん靴などはいてはいない。
この家の使用人は皆、性別問わず和服である。つまり彼は使用人ではない可能性がある。
この家の者で、使用人ではない男——晃堅は亡くなった。
体が弱いと聞いている長男、英である事を慶喜は願った。
しかし視線を足元から上へ上げて、二人は失望する事となる。そこに佇んでいたのは、昭三郎であった。
「お二人共、そんなに慌ててどうされました?」
昭三郎はさして驚いた様子も無く、相変わらずにこやかに話しかけてくる。
父親の無残な死体を目の当たりにした直後とは思えない。
「ああ…いや、道に迷ってしまって。」
二人はゴクリと喉を鳴らし、思わず後退りすると、やっとの思いでそう口にする事ができた。
心臓が飛び出さんばかりに脈打っている。
「し、昭三郎さん!俺たちは無罪です!あなたのお父さんを殺していない!」
英二が動転したように、そう訴えたので慶喜はぎょっとした。
「す、すみません!こいつ、ちょっと…」
何とか場を治めようとする慶喜に、昭三郎は軽やかに笑い「何や、そんな事を心配しとったんですか。」
と、まるで何でもない事の様に答えた。
「すみません、こういった事件に遭遇したものだから、こいつ気が動転して…」
慶喜は頭を下げ、英二の頭も抑えて無理やり下げさせた。
こう言ったのは、嘘ではない。ただし、無残な死体や事件を見て気が動転したわけではなく、自分達が第一発見者でありおまけに最近突然現れた余所者である以上、警察は確実に疑いを深めるであろう事についてである。
「大丈夫ですよ、安心してください。」
昭三郎は静かに、しかし力強く、言い聞かせるように言った。まだ十代の少年とは思えぬ頼もしさ故に、慶喜は何の根拠も無い彼の言い分にかなり安心してしまった。
隣にいる英二もそれは同様で、いくぶん気が落ち着いたようだった。
「お二人はかなりお疲れの様ですね、部屋に戻って休んだ方がええ思います。
お部屋まで案内しますよ。」
そう言って廊下を歩き始めた昭三郎の後を、二人はフラフラとついていった。そして側面に襖のある部屋が並ぶ暗い廊下という同じ風景をぼんやりと眺めているうちに、自分達の荷物が置かれた客間へ通されていた。初めてこの家で目覚めた時に、寝ていた部屋である。
布団は新たに敷き直したらしく、綺麗に整っている。部屋の隅にある小さなちゃぶ台に、水差しとコップが置いてあった。
至れり尽くせりで有難いが、自分達がどこの馬の骨とも知れぬ闖入者である事から、これ程尽くされる事を気味悪くも感じる。
「警察の事は、心配しなくても大丈夫です。今日お伝えしたように、この村から外部へ通じる橋が崩れていて復旧が十分やないのですよ。
ですから、警察を呼ぶ事はしばらくの間できませんね…」
そんな馬鹿な、と二人は思った。大昔ならいざ知らず、令和の世でそんな事があり得るはずが無い。電話で通報すれば、警察はヘリコプターなり何なり使って、捜査に来る事は可能であるはずだ。
つまりこれは…警察を呼ぶつもりは無い、という言外のメッセージであろうと慶喜は判断した。そしておそらく「あ」についても心配するな、と言っている。
「今日はごゆっくりお休みください。」
昭三郎はにこやかにそう言って頭を下げると、襖を閉じた。廊下に響く、小さな足音が遠ざかり聞こえなくなるまで、二人は姿勢を崩す事ができなかった。
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