川上の婆

僧なのか神主なのかよく分からない老人の意味不明な催しが終わった様で、老人は慶喜たちの方を向くとお辞儀をして退出しようとした。


「祟りじゃあ!」


拍手の鳴りやんだ静かな広間に、しゃがれた大声が響き渡る。

今度は慶喜たちだけでなく、広間にいる皆が驚いてキョロキョロ辺りを見回し、声の出所を探っていた。


「祟りじゃあ…」


振り向くと、声の主は広間の入口になる襖に手をかけ立っていた。


声の主は老人だった。婆なのか爺なのか分からない。もう長い間櫛を通していないであろう、伸び放題の白髪、シミと皺だらけの顔、しかし不思議とこの者はこの広間に集う者たちのような毛穴の目立つ土気色の肌や黄色く濁った白目、淀んだ瞳をしていない。

ただし、油が浮いたように目がギラギラと照っている。

口を開けると、所々歯が抜けているのが分かった。


服装は和服だった。これまた葬儀に相応しくない、赤や黄色の花々が描かれた安価でそして古そうな振袖をだらしなく羽織るようにして着ている。


「祟りじゃあ!ムカデ明神様の…祟りじゃあ!」


しばらくの間、広間の者達は皆その異様な老人に目が釘付けになり、一言も発せずにいたのだが、間もなく喪服を着た数名の者が出て来て、大儀そうにその老人を抑えるとどこかへ連れて行ってしまった。

老人はその間も、叫ぶ事を止めなかった。


「祟りじゃあ!きさまら全員、ムカデ明神様に殺されるで!あははははは」


老人の喚く声、笑い声が次第に遠ざかり、ぽつりぽつりと話す声が聞こえてきた。


「川上の婆だ…」


「いつの間に…」


あの老人は「川上の婆」と呼ばれる老婆らしいと知れた。


「旅の方…」


後ろからそう声をかけられ、慶喜は振り返るとそこには隣に座っていた顔色の悪い男が佇んでいる。


「驚かれたでしょう。あの婆さんは一家を不幸で亡くされてから、ずっとああなのですよ。」


愛想笑いを浮かべる男の口角は、やや上を向いている。目は相変わらず淀み、濁っていて力が無く、そこには何の感情も窺えなかった。


「ムカデ明神というのは、何の事ですか?」


慶喜が尋ねると、男は「なに、ただの昔話…民話です。」


「くだらない、昔話ですよ。川上の婆はどうかしちゃってるんです。それであんな、民話を現実と混同して…いやしかし、もう大丈夫。大丈夫なんです。ええ、そんな事ありえへんので…」


慶喜はその民話の内容が気になったが、男はそれ以上話したくはなさそうだった。何やら怯えている風にも見える。なので、深入りする事を諦めた。


――それに、俺たちは民俗学者ではない。そんな事にかかずっている暇は無いんだ。金と楽器、大切な事はそれらの確保だ。




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