廃墟

家の外に出ると、空は青空が広がり雲一つ無い。気持ちの良い朝のはずだが、慶喜の気分は優れなかった。


あの曲を、もうずっと聴いていないからだ。正確に言うと、満足できる程聴く事ができていない。

計画のためには、周囲と同化しなければならない。つまり身なりを清潔に保たねばならないのだ。そして、体力をつけるために食事と睡眠も欠かせない。

そのために、曲を聴く時間が奪われてしまう。


しかしそれでも、あの素晴らしいコンサートをもう一度体験するためには、辛抱しなければならなかった。


あの時、CDショップを訪ねてコンサートの再開を望んだ時、店員はこう言った。


「まず、奏者とボーカルが必要です。そしてコンサートを維持するためには経費も…用意できますか?」


費用はあればあるほど良いが、最低でも一千万は必要だと、そう店員は言った。


――もう少しだ、あともう少しの辛抱で、またあの素晴らしいコンサートを実現できる。


家を出て、通路を歩き始めた慶喜の耳に、微かな旋律が聴こえた。


――この曲は…


音楽の聴こえる方を探りながら、慶喜は走り出した。音は徐々に鮮明になり、出所に近付いているのが分かる。


――なんて美しい音色なんだ!これは、あの曲と同様に作られたものに違いない!なぜこんな所で聴こえるんだ?!


塀に囲まれた、人が二人程しか通れなさそうな、薄暗い通路をひた走り、明るい大通りに出た時、目の前にその光景が飛び込んで来た。


切り開かれた腹部と頭部、腹部には腸が弦のように張られており、頭上には脈打つ心臓を戴いている。

弦と心臓が絶妙なハーモニーを奏で、弛緩した口からは美しい歌声が流れ出していた。


あの夜、コンサートで見た楽器犠牲者が、街の至る所に点在し、音を奏で歌声を鳴り響かせている。

そして、そのどれもの音色が喧嘩をしておらず、上手く合わさってより豪奢な大合唱を成功させていたのだ。


――これだ…これだよ!俺の夢はこれだったんだ!


慶喜は感動のあまり、その場で膝を折り涙を流しながら目を閉じ、聴き浸った。



「おい、何でこいつ泣いてんだ?」


見知らぬ男の声が聞こえた。この素晴らしい大合唱を耳にして、何無粋な事を言っているんだ?こいつは――


そんな反発を感じて目を開けると、そこは薄暗い、見知らぬ場所だった。どこにも楽器犠牲者の姿は見当たらず、曲も聞こえない。

さっきまで明るい街中にいたはずなのに、今いるこの場所は薄暗く、壁も床もコンクリートの打ちっぱなしで、誰かが使っている気配も無く、廃墟のようだった。


「そりゃ泣きたくもなるだろうさ。なあ?」


別の男の声が聞こえた。


目の前に、見知らぬ男が二人佇んでいる。二人共、黒い短髪にスーツ姿という、どこででも見られる普通のサラリーマンのような姿だ。


その目を除いて。


ぱっちりと開かれた四つの目は、中央の黒目が小粒に見える程、白目の面積が広く感じられる。薄暗い中、四つの目だけがギラギラと嫌な輝きを放っていた。


慶喜はたっぷり一分かけて、これまでの出来事を思い出した。しかし、あの老婆の家からどうしてここに来たのか、ここがどこなのか、それだけはどうしても思い出せない。

あの後気を失い、この薄暗い廃墟へ運ばれたのだろう。


すぐ横に気配を感じ目をやると、そこには血だるま状態の英二が呻き、壁にもたれかかっている。ぱっと見た時は、英二だと気付かなかった、それ程彼は酷い状態だ。鏡を見ていないから分からないが、きっと自分も似たような姿をしているのだろう。


「ここは…」


慶喜は呻くように声を漏らした。静かな廃墟の中では、そんな声でもよく聞こえるらしく、二人の男は慶喜に「何だ?」という風に注意を向ける。


「ここは…警察署か?あんたらは、警察なのか?」


男の一人がそれに答えた。


「安心しろ、ここは警察とは何の関係も無い場所だし、俺たちも警察じゃない。」


彼らは警察ではない、無関係…では一体、何者なのだろう?彼らの姿を頭のてっぺんからつま先まで見るのだが、やはり普通のサラリーマンにしか見えなかった。


「あの婆ちゃんの、親類か何かか?」


慶喜はそう思い至り、口にした。


「親類じゃねえよ、まあ色々世話になっているがな。お前、あの家に強盗に入るために少しは調べたんだろうから知ってるだろ、あそこの婆ちゃんが近くで薬局開いている事を。」


慶喜は頷いた。老婆が薬局の、一応店主をしている事は英二から聞き知っている。

ただし、大体店は閉まっており、既に廃業していると周囲からは認識されていそうな、そんな店だ。そう、まるであのCDショップのように。


「あの婆ちゃんにはよく、ポンプやらクロロホルムやら、手に入りにくい器具や薬剤を売ってもらっているんだ。お前らが強盗に入ったあの家、内輪じゃポンプ御殿なんて呼ばれてるんだぜ。」


ポンプというのは、覚せい剤に使用する注射器の事だ。そんな物を買い求めるこいつらは、ヤクザやチンピラという事か。

慶喜は自分にこれから起こる事を考え、身震いした。警察に捕まった方がマシだったかもしれない。


「お前ら二人共、まだ若いし健康そうだな。全身売れば、一人あたり五千万にはなりそうだ。」


――内臓だ!体をバラして内臓を取られるんだ!


慶喜は元々低い方であった体の熱が、一気に下がるのを感じた。

隣を見ると、英二は相変わらず気を失ったままである。恐怖を感じる事無く、知らぬうちに息を引きとる事ができそうな彼が、慶喜は妬ましかった。






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