第253話 【断章】ロォヌ②

 アリアネルが、魔界の瘴気に慣れ始め、少女の食事時に同席することを許されるようになった頃。


「今日のご飯も美味かった!ありがとー、ロォヌ!」

「それはよかったです、アリアネル」


 成人形態の魔族の身体に比べると小さすぎるその身体の、一体どこに入っていくのだろうと思うくらい、アリアネルの食べっぷりは素晴らしい。

 最近、外出をしたり簡単な訓練を始めたと言っていたので、今まで以上に腹が減るのかもしれない。

 少し食事の量を増やした方が良いだろうか……などとロォヌが考えながら、食後のミルクを注いでいると、アリアネルは大きな竜胆の瞳でロォヌを眺める。


「……?どうしましたか?」

「最近アリィね、ロォヌ以外のお城の魔族の皆にも会ってるの」

「そうですか」

「皆優しいの!ロォヌと一緒!大好き!」


 ぱぁっと眩しい笑顔を向けられて、困ったように笑みを返す。

 城の魔族の殆どは上級魔族で、一部の中級魔族も、上級に片足を突っ込んでいるくらいの有能な魔族ばかりだ。

 そんな彼らが、『ロォヌと一緒』なはずがない。

 アリアネルの無垢な言葉は、この部屋を出れば孤独になるロォヌの無自覚なコンプレックスを悪気なく刺激した。


「アリィのこと、アリィって呼んでくれる魔族の人もいるんだよ。ぜるは、本当にたま~にしか呼んでくれないから、アリィ、すごく嬉しいの!」

「そうですか。アリアネルはいつも自分のことをそのように呼ぶので、つられて呼んでしまうのでしょう。魔族は基本的に、愛称で呼び合うという習慣はありません。アリアネルのことを特別に想っている、という表明でもあるでしょうね」

「ほんとう!?」


 アリアネルの輝く笑顔に、こくりと頷いて見せる。


 魔族同士の間で、愛称を呼ぶという習慣がないのは、どの魔族も皆、偉大なる魔王からもらった名誉ある名前を大切に想っているからだ――というのは、建前だろう。

 かつて魔王が命天使と呼ばれていたころ、天界では、造物主以外の存在を造物主以上に愛し、特別視することが禁忌タブーとされていた。

 相手に己の力の源となる名前を呼ばせるだけも、特別な親しさを感じさせる行為だと言うのに、その上愛称で呼ぶことがあれば「特別な感情はない」とどれだけ口で言い張っても、根拠がないと処罰対象となったことだろう。

 おそらく、造物主の狂愛がトラウマになっているであろう魔王は、造物主の影響が限りなく薄くなったはずの魔界でも、無意識にそうした習慣を魔族に与えなかった。


 だから、アリアネルに伝えた言葉は嘘ではない。

 己を律することに長け、魔王を絶対視するはずの高位魔族たちが、本来魔王に与えられた”設定”を超えて愛称を呼びたくなるくらい、アリアネルは可愛くて堪らない存在なのだろう。

 

「そっかぁ……ぇへへ……じゃあ、パパにもいつか、呼んでほしいな」

「そ、れは……そ、う、ですね」


 それは流石に難しいだろう――と思うが、無垢な夢を見ている幼子に厳しい現実を突きつける必要もないだろう。

 言葉を濁してから本音を心に仕舞い込み、注いだミルクを差し出すと、アリアネルは両手でそれを受け取ってから、ロォヌを見た。


「ロォヌも、アリィのこと、大好きって思ったら、アリィって呼んでね!」

「ぇ――あ……」


 初めて出逢ったときから考えれば、随分大きくなった手。それでも、大人に比べれば随分頼りない小さな手。

 そんな小さな両手でグラスを大切そうに持って、落とさないように気を付けながら、ミルクをこぼさずごくごくと飲む姿は、ストローからしか液体を飲めなかった時代から考えれば、驚くほど成長したと思う。


 少女の成長を間近で見て来て、少女を愛しく大切に想う時間が増えた。

 自分はこの少女のために造られたのだ。

 この少女に尽くすことが存在意義で、この少女に生かされていると言っても過言ではない。

 アリアネルに危険が迫れば、己の身を顧みることなく、躊躇なく身を挺せるくらいには、少女を大切に思っている。


 脆弱な人間の幼子を、愛玩動物のように無責任に可愛がる城の魔族たちとは、違う。


「……私は、アリアネルのために造られた魔族です」

「んぐ……ん、ふぇ?」


 ミルクを飲み切って、白いひげを付けたまま、アリアネルはロォヌを見上げた。

 困った顔で微笑んでから、ロォヌはそっと白い清潔な布を取り出して、少女の口元についた愛らしい髭を拭ってやる。


「ゼルカヴィア様のような、上司――とはまた違った感覚ですが。それでもアリアネルは、私が生きるために、誠心誠意尽くすべき相手です。アリアネルのことは、誰よりも一番大好きですが、お友達や、愛玩動物とは違います」

「……??」

「大好きですよ、アリアネル。私の命より大切な、大事な子。貴女を生かすために、私がいます」

「……ぅ、ん……?アリィ、むずかしいこと、よくわかんない……」


 大人しく口元を拭われていたアリアネルは、唇を尖らせて哀しそうに目を伏せる。

 ロォヌの言葉の意味は半分以上わからなかったが、愛称で呼ぶことをやんわり拒否されたことだけはわかった。

 だが、これは強制すべきことでもない、ということはわかっていた。

 いつか、ロォヌが呼びたいと思ってくれた時に呼んでくれたら、すごく嬉しい――それだけのことなのだ。


「アリィ、ロォヌのこと、大好きだよ」

「えぇ、アリアネル。私も、貴女が大好きです」


 にこり、と笑うとロォヌの瞳は縦に細くなる。

 アリアネルは、爬虫類が混ざったその瞳が笑みに緩むのを見るのが、当時からずっと、ずっと、大好きだった――

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