第63話 親心②
「えっと……どうやら、一番は息が苦しくなって気分が悪くなる、というのが主訴のようです。立っていられないほどの気分の悪さのようですね。人間たちの目があるので、馬車の座席に寝かせて結界の内側まで走りましたが、人間界にいるうちはずっとぐったりしたままでした」
「人間界にいるうちは――?……魔界に戻って来てからは回復したのか」
「はい。馬車から降りるときは、少し青ざめていましたが、自分で身体を起こせるようでした。抱えてやったら、恥じらって自分で歩くと強がる程度には元気が戻ったようです」
「……フン……」
少し身を乗り出していた魔王は、鼻を鳴らして椅子の背もたれへと深く沈み込む。
「アレは、お前や俺の前であっても、常に役に立つ存在であろうと強がるだろう。脆弱な人間の分際で」
「は――はぁ……そうですね」
「能天気なオゥゾあたりにでも部屋に向かわせて、無駄に濃い上級魔族の瘴気を浴びさせてやれ」
「……は、はい……」
戸惑いながら、ゼルカヴィアはオゥゾに向かって
(まさか、勇者の話よりも、アリアネルの体調に食いつかれるとは思いませんでした……)
途中で話題に挙げた勇者の存在など全く気にも留めなかった魔王を思い出し、ゼルカヴィアは内心戸惑いの汗をかく。
これではまるで――まるで、何よりアリアネルの身体を重んじているようではないか。
「任務遂行がすぐには難しいことは分かった。何かしらの対応策を考える」
「は……あ、ありがとうございます」
忘れないようになのか、手元の書類に何かを書きつけながら言われて、とりあえず礼を返す。
「それで、他には。アレの体調の問題は置いておくとして、勇者が通う学園とやらへの潜入自体は問題なく可能そうなのか」
「はい、それは心配ありません。事前の準備が功を奏したのは勿論ですが、アリアネル自身も随分役に立ってくれました」
「ほう?どういう意味だ」
気を取り直して、ゼルカヴィアは今日の詳細を報告する。
「予期せぬトラブルがあり、人間の攻撃魔法が飛んで来る場面があったのですが、アリアネルがそれを見事防いで見せたのです」
「ほう」
「第六位階の天使の魔法を無詠唱で迅速に展開したことで、周囲は驚きに言葉を失っていました。どうやら、同じことが出来る人間はあの場にいないか、いてもごく少数だったようですね」
「フン……当然だ。誰が教えたと思っている」
鼻を鳴らして吐き捨てる魔王の発言は、親馬鹿のそれだ。
ゼルカヴィアはツッコミを入れるべきか悩んだ後、命が惜しいのでいったん無駄口を慎んで、複雑な顔のまま報告を続けた。
「それから――何といっても、やはり、あの外見は役に立ちますね」
「……外見……?」
「第一位階の天使に愛されるのも頷けるほどの、整った顔をしているでしょう。先の魔法を展開した際、風圧で帽子が飛んで、アリアネルの素顔が露わになったのですが、その場にいた相当数が心を奪われていたようでした」
「フン……くだらん。赤子の時点で加護を付けられるほどの子供だぞ。当然だ」
(それもまた、親馬鹿の発言に思えるのですが――いえ、何も言いませんけれども)
ぐっとツッコミを入れたくなる唇を引き結んで堪える。
――正直、魔王と同じ気持ちだ。
アリアネルの愛らしさを前に、心を奪われぬ者などいないはずがないと思っている。
当然、美形揃いと言われる天使の加護を持つ子供たちが揃った今日の場でも、どんな娘よりも絶対にアリアネルが一番可愛かったに違いないと心から思っている。
アリアネルに『親馬鹿』と揶揄されたばかりだから、面と向かって魔王に指摘は出来ないけれども。
「まぁ、最も想定外というか、嬉しい誤算だったのは――勇者候補のシグルト・ルーゲルの気を惹けたことでしょうか」
「……何……?」
「アリアネルは、魔族に囲まれて生きていましたから、恋愛感情などというものなど、おとぎ話の世界だと思っているのでしょう。それゆえ、ピンと来ていないようでしたが――察するに、どうやらシグルトは、アリアネルに一目惚れしたようです」
「――――――何――?」
ぎゅぅっと魔王の眉間に皺が寄り、声が低くなる。
「飛んだ帽子を拾って渡したのが、シグルトだったのですよ。妙な注目を浴びて、戸惑ったアリアネルは、顔を隠したかったのでしょうね。ちょうどよいタイミングで帽子を差し出したシグルトに、つい、いつもの調子で、満面の笑みで礼を言ったのです。――この城中の魔族が絆された、あの邪気ゼロの、眩しい笑みです」
「――――……」
「人間で、あれに惚れない男などいるでしょうか。いえ、いません。いるわけがありません。当然です。……いえ、失礼しました。少し熱が入り過ぎました」
コホン、と咳払いをして仕切り直し、本題に戻る。
「顔を真っ赤にしながらしっかりと手を握って、まっすぐにアリアネルを見ていました。あれで惚れていない、という言い訳は出来ないでしょう。……ハニートラップをしろとまでは言いませんが、随分と懐に入りやすくなったのは事実です。無事に入園できた暁には、スルスルと情報を引き出してくれるのではないでしょうか」
「……あの、無垢な幼子が、か?」
眉間に刻んだ皺はそのままに、低い声で魔王が反論する。
「……まだ、早すぎるのではないか?」
「それは、まぁそうでしょうね。恋愛などおとぎ話の中の世界だと思っているでしょうから、身近に感じることは勿論、その対象が自分になることなど、想像もしていないでしょう」
「そうだろう。……そんな娘に、男を手玉に取るようなことが出来ると言うのか?」
「幸い、入園まで時間はありますし――卒業まで含めれば、五年近くあります。今は魔族に囲まれているせいで遠いその価値観も、人間の同世代の者たちに囲まれれば、嫌でも実感するでしょう」
「そうか。――早すぎるのではないか?」
なぜか、魔王は二度同じことを言った。
上司の言いたいことがわからず、ゼルカヴィアは疑問符を上げる。
「まぁ……確かに、嘘の一つすら満足に吐けないあの子が、男を手玉に取るなど、あまり想像が出来ないことは確かですが」
「それどころか、初めて恋愛という感情を向けられ、舞い上がって襤褸を出しかねん」
「それは――ありえなくもないような……」
幼い頃、絶対に手を離すな大人しくしていろと厳命し約束させてから初めて人間界に行ったにもかかわらず、絵本の中にしかないと思っていた花畑を前にして、秒で約束を破って手を振り切って駆け出して行った後姿は、今もよく覚えている。
絵本の中にしかないと思っていた憧れの出来事を目の前にしたとき、少女がどういう行動をとるのか、未知数な所は大きい。
何より――魔族であるゼルカヴィアにとっても、魔王にとっても、時間の流れに関する感覚は、人間とは異なるのだ。
あの、人間界に連れて行った日から優に五年余り――人間たちの間では、分別がついた子供になっていて当然と思える月日だったとしても、ゼルカヴィアや魔王にとっては、つい数日前の出来事のようにしか思えない。
数日前に「お花畑!」と言って駆け出して行った幼い子供が、明日、金髪碧眼のシグルトが好意を持って近づいてくるのを見て「王子様!」と言って飛びつくことはないと言われても、何の信憑性もないというのが本音だ。
「……言われてみれば、確かに、早すぎる気がしてきました……!」
「そうだろう。あの幼子に、恋愛などまだ早すぎる」
ガタガタと青ざめて震えるゼルカヴィアに、魔王は静かに同意する。
「あの子供に、余計な知恵を入れるな。恋愛などというのはおとぎ話の中の絵空事なのだと言って聞かせるくらいでちょうどいい。下心を持って近寄ってくる男は皆軽蔑して退けろと伝えておけ」
「そうですね……!心得ました……!」
こくこく、と頷くゼルカヴィアに、魔王は満足そうに重く頷く。
――それを親馬鹿の会話だと指摘するような第三者は、残念ながらこの部屋には誰もいなかった。
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