第230話 主との語らい①

 太陽が顔を出さない魔界は、暗闇に沈んでいる。

 ”門”の中に満ちる不思議な光と、魔王が開いた転移門ゲートの紫色の発光を頼りに、青年はゆっくりと涙に濡れた少女の顔へと手を伸ばした。


「――アリィ。アリアネル」

「お、お兄ちゃ……」

「そんなに心配しなくても大丈夫です。多少、血液を多く失っていますが、命に別条があるわけではありません。今は、身体が人間の組成に近いので、自然治癒力も体力も微弱で身動きを取るのもおっくうですが……最低限の止血をし、朝になってゼルカヴィアと融合すれば、すぐに回復する程度の傷ですよ」

「で、でも――血、血が、一杯……!私のせいでっ……」


 伸ばされた手を、縋るように両手で握る。

 血液を失っているせいか、いつも温かく少女を安心させてくれた大きな手が、妙に冷たく感じられて、ひゅ――と肝が冷える心地がした。

 顔を蒼くした少女に、呆れたような微笑を刻んで、青年は安心させるようにぐっと力を込めて少女の手を握る。


「大丈夫ですよ。アリィのせいではありません。むしろ、貴女はよくやってくれました」

「そんな、そんなこと――私が、考えなしに、封天使の魔法で最初の扉を開けちゃったから――!」

「ですが、魔界側から侵入した我々には、あの扉を解錠するにはあれ以外方法がなかったでしょう。私一人で潜入していたら扉を物理的に破壊するしかなく、その騒ぎで神官を叩き起こし、何事かと様子を見に来た者を片っ端からなぎ倒しながら目的地を目指す――という、非効率極まりない行動をとらざるを得ませんでした。そんな騒ぎを起こせば、地天使の元で問答をするよりも先に天使が介入してきた可能性は高いです。封天使よりもやっかいな天使が来ていた可能性すらあります」

「でも――」

「貴女がいなければ、スムーズに地天使から情報を得ることも、封天使の蒼い封印を解くことも、魔王様に助けていただくことも叶いませんでした。もっと、自分を誇って良いのですよ」


 にこり、と笑みを作る青年は、いつもより元気がないのは確実だ。少女を安心させようと気丈に振舞っていることは明らかで、その優しさにアリアネルはほろりと再び涙を流した。


「うん……ごめん。ごめんね、お兄ちゃん」

「さぁ、お行きなさい。続きは明日、ゼルカヴィアに沢山褒めてもらうのですよ」


 優しく小さな象牙色の頭を撫でられ、少女は唇を引き結んでこくり、と頷き立ち上がる。


「パパ、迷惑をかけて本当にごめんなさい。何かあったら、すぐに呼んでね。そのときは、聖気……を、出せるかわからないけど、精一杯頑張るから!」

「わかったからさっさと行け」

「うん。じゃあ、またね。おやすみなさい」


 魔王の塩対応にも負けず、名残惜しそうな顔をしながらも、涙をこらえながら少女は魔方陣の中へと消えていった。

 呆れたように息を吐いて、魔王は青年の背中の傷を見る。


「申し訳ありません、魔王様。お待たせいたしました」

「構わん。……俺は、こういうときに相手の感情に配慮した声をかけることが出来ん。お前が掛けた言葉は俺には逆立ちしても出てこない。全く理解が及ばんが、あの人間には必要な言葉だったのだろう」


 目視で一つ一つ傷を確認しながら、平坦な声が呟く。

 魔王がこの世に生を受けてから数万年、他者との会話はいつも、正論を冷静に語っているだけなのに反発を受けることの方が圧倒的に多かった。どれほど正しいことを言っても、感情的に受け入れることが難しいと反発されては、その思考を理解することが出来ずに頭を悩ませた。初代正天使を失ったときの治天使などは、最たる例だ。


 それは、己の『役割』を考えれば仕方のないことだ、と諦めたのはいつのことだったろうか。

 結局、魔王となってからは、魔族らの序列意識を天使よりも高めることで、強権で押さえつけるという手法をとって今まで対応してきた。

 

「与えた『役割』を果させるために他者を慮るような能力を付与しようと思っても、上手くいかないことが多い。俺自身が、その分野に長けていないためだろう。成功した個体は少ないが、それは俺が造った性質ではなく、環境の中で本人が学び、変化した結果であることが殆どだ」

「なるほど。造られた本来の性格や能力が、時間をかけて環境で変化することは、必ずしも悪ではないのですね。となれば、ミュルソスなどは、成功した個体の一人でしょうか」

「そうだな。アレは、非常に稀有な例だ」


 静かに認めながら、魔王は優先的に治癒すべき傷を見極め、ゆっくりと魔力を練る。

 アリアネルが傍にいない以上、聖気は今、己の中に満ちている分しか存在しない。

 聖気を管理する翼を失った今、繊細なコントロールが必要な治癒魔法を、己の体内の限られた聖気で行うには、集中が必要だった。


 魔王が真剣な眼差しで手をかざした先から、じんわりと温かい何かが広がっていくのを感じながら、青年は小さく口を開いた。


「……魔王様」

「なんだ」

「お身体は、大丈夫でしょうか」


 ぱちり、と蒼い瞳が虚を突かれたように二度、三度瞬く。

 血液を失い、蒼白くなった顔で、青年は困ったように魔王の顔を見上げた。


「私が何年、お傍にいるとお思いですか。アリアネルとは年季が違うのですよ。……貴方の異変に気付かぬほど、鈍感ではありません」

「……」

「封天使への”介入”のせいですね。……申し訳ありません。私が不甲斐ないばかりに――」

「黙れ」


 長い睫毛を伏せて謝罪を口にした青年に、魔王は短く命令する。

 有無御言わさない強い口調に、青年はしぶしぶ口を閉ざした。


 いくら治癒魔法が超高等魔法だったとしても、魔王の底なしの魔力と、治天使にすら上から命じることが出来る強権をもってすれば、本来、魔法行使に慎重になる必要などないはずだった。

 翼があろうとなかろうと関係ない。

 魔王は、かつてアリアネルがイアスと遭遇し勘違いの末に号泣して、今日と同様瘴気を発するだけの存在になった時に、その泣き腫らした眼を治癒であっさりと治して見せた。軽く手をかざして、呪文の一つも唱えることなく、特段集中することすら必要ないと言わんばかりにあっさりと。

 

 だが今日は、暗がりでわかりにくいが、ただでさえ白く美しい魔王の頬が、やや青みを帯びているように思う。

 青年がアリアネルを宥めている間も、背後で時折、神経質そうに眉を顰めるときがあった。

 いつも、なんだかんだと甘い顔をすることが多いアリアネルに、余裕のない棘のある言葉を投げつけ、さっさとこの場を去らせようとしていたのも、魔王らしくない。

 魔王の力があれば、アリアネルのことなど無視して、青年の身体が快癒するイメージとともに魔法をかければ事足りただろう。

 だが今は、妙に真剣な表情で、傷を一つ一つ確認し、優先度の高いものから慎重に治癒を図っている。どう考えても、違和感しかない。


「お身体の痛みが激しいのではないですか。平易な魔力操作も難しくなるほどに意識が朦朧とすると聞いています」

「黙れと言っている」

「アリアネルはもういません。ここには、他の魔族も来ません。……もし、耐えきれぬようなら、血を吐いてください。他言は致しませんし――無理に堪えるよりは、楽になると思います」

「知ったような口を利く……」


 忌々しそうに吐き捨てるが、ぐっと息を詰めて何かを堪えるように口を閉ざした。

 血がせり上がってくるのを耐えたのかもしれない。


(平易な魔力操作が難しいレベルですから、アリアネルが身近で常に瘴気を発していては、高等な治癒魔法など出来ないでしょうね……配下に弱みを見せまい、というのは魔王様らしい強情さではありますが)


 軽い咳払いで誤魔化し、再び真剣な顔で手をかざす魔王に、申し訳なさと不甲斐なさに瞼を伏せる。

 純正の天使相手に、どこからが”介入”と見做されるのかは不明瞭だったが、少なくとも、天使が敵意を持って排除しようとしている対象への攻撃を制止し、序列を振りかざして行動を強制することは、”介入”と判断されるらしい。


(封天使に伝言メッセージを飛ばした段階で、耐えがたい痛みが襲っていたでしょう。それにもかかわらず、私がこちらに投げ返されれば、すぐに重力操作の魔法を展開して――慣れない痛みと感覚に、戸惑いも大きいでしょうに、それを悟らせまいとするあたり、やはりこの方は、ただ不器用なだけで根っこのところには優しさがあるように思えますね)


 地面に叩きつけられることを覚悟した瞬間、アリアネルの胸に抱き留められる前に、ふっと身体が軽くなったことを思い出しながら、魔王に気付かれないように吐息だけで笑みを刻む。

 アリアネルは、城勤めではない重力を司る魔族の名前を知らない。あの瞬間、無詠唱であの魔法を展開できたのは、魔王だけだった。

 

 訳知り顔で魔王の崇高さを語っていた封天使に言ってやりたい、と胸の中で嗤う。

 確かに魔王は、年端もいかない少女が号泣していようが、苛立たし気に舌打ちをして尖った言葉で正論を語り、退席を命ずるような無粋な男ではあるが、不必要な心配を周囲に掛けないように己の痛みや苦しみを抑え込み、吐血を堪えながら負傷した部下の治療を行うような男なのだ。

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