第229話 封天使⑧
天使を見上げる視界の先に白刃が煌めき、一直線に己の喉元目掛けて振り下ろされることを覚悟した、その瞬間だった。
『止まれ!***!!』
「「――!!?」」
脳裏に響いた叫び声に、”影”も封天使も息を飲んで目を見開く。
それは、”影”にとっては酷く聞き馴染みのある声であり――
――封天使には、一万年ぶりに聞いた、声だった。
「命……天使、様……?」
呆然とした声が唇から零れ落ちる。
これ以上開くことは出来ない、と言わんばかりに見開かれた翠色の瞳は、瞬きすら忘れてしまったようだ。
『止まれ、***。その男にそれ以上危害を加えることは許さん』
激昂にも近い最初の一喝から一転し、低く響く冷静な声が、ゆっくりと噛みしめるように告げる。
(これは、
己に振り下ろされるはずだった白刃の切っ先を見据えながら、”影”は困惑しながらも状況を考える。
何やら、予期せぬ方向へ事態が転がっているようだ。
「ぁ、あぁ……命天使様っ――!命天使様、本当にっ……本当に、貴方様なのですか――!」
大きく見開いたエメラルドの瞳の端に透明の涙が浮かび、感極まったように叫んだ封天使は、手にしていた魔剣を放り出すとその場に頽れるように膝をつき、天を仰いだ。
先ほどまでの居丈高な様子から一変した態度に、ぎょっと”影”は目を剥く。
『お前と雑談を交わすつもりはない。――その男の拘束を解き、門の奥へと送り返せ』
「命天使様――ですがっ……!」
『もう一度言う。その男に危害を加えることは許さん』
ひやり、と部屋の温度が下がるような低い声で告げる魔王の声に、封天使はぐっと言葉を飲み込む。
「そんなに――そんなに、この男が、『特別』ですかっ……!?やはり貴方は、この男がいるから――!」
『訳のわからない戯言を……その男は、魔族の序列からは外れた、イレギュラーな存在だ。魔族ですらないその男が、魔界の事情に巻き込まれることを、俺は良しとしない。それだけだ』
「な……」
天使は絶句して固まる。
”影”は視線を巡らせながら、状況を冷静に分析した。
(この天使が抱く魔王様への忠誠心は本物のようですが、私――ゼルカヴィアへの憎しみも相当に大きいようです。素直に言うことを聞くかどうかは、賭けですね。問題は、この天使が魔王様に向かって余計な事を口走らないかどうか――)
天使は蒼い顔で固まったまま、必死に何かを考えているようだ。
おそらく、記憶の中にある命天使像と、頭に響く魔王の言葉との違和感が解消できず、困惑しているのだろう。
『***』
「っ……!はい、命天使様!」
”影”には意味不明な音の羅列にしか聞こえないそれは、どうやら封天使の名前らしい。
問答無用で上下関係を誇示する呼びかけに、封天使は上ずった声ですぐに返事を返した。
『俺は、無駄なことが嫌いだ。――二度は言わない。俺の命令を、聞くのか、聞かないのか。どちらだ』
押し殺したような低い声に、かつて天界にいたころと変わらぬ威厳を感じ、ぐっと封天使は言葉に詰まる。
しばしの逡巡の後、乾いた喉を上下させて、ゆっくりと口を開いた。
「我が主の、仰せのままに……」
『フン……それでいい』
絞り出すような声に、魔王が下らない問答をした、とでも言いたげに吐き捨てる。
封天使は苦々しい顔をしながら、漆黒の鎖を引き寄せ、持ち上げた。どうやら、鎖で拘束した状態のまま、門の向こうに身体を放り投げて、後から鎖を解くつもりのようだ。
(まぁ、魔王様の命令をいいことに、解放された瞬間私が反撃に出ない保証はないですからね。もしそうなれば、魔王様の命令を聞くと決めた以上、封天使が私の攻撃に抵抗することは出来ないでしょうし。慎重派な性格というのは確かなのでしょう)
最悪、鎖を解かれなかったとしても、魔王の目の前にさえ転がしてもらえれば、魔王は封天使の名前で魔法を行使し、強制的に解呪することが出来る。
悔しそうに歯噛みする封天使に、”影”は見下したような目を向けて口を開いた。
「次にお会いするときは、魔王様の右腕として――魔族のゼルカヴィアが、相手をして差し上げましょう」
「何……?」
「今の私は、世を忍ぶ仮の姿。本来の私ではありませんから」
封天使は、ぎゅっと眉根を寄せて難しい顔をした後、憎々し気に口を開いた。
「次に会うようなことがあれば、必ず貴様を殺してやる」
「それはこちらの台詞ですよ」
ぐっと青年の身体を持ち上げた封天使は、”門”に向かって狙いを定めた。
「貴様のような、異端者を――俺は、絶対に認めない――!」
叫ぶと同時に、ブンッと一息に光の中へと身体が放り込まれる。
ジャラララ――と鎖が擦れる耳障りな音共に、不自由な体勢のまま光の門を潜り抜けた。
「っ……!」
息を詰めたのは、眩しさを回避するためと、放り出された先――魔界の岩肌に打ち付けられる衝撃を覚悟したからだ。
光が網膜を焼いたと思った瞬間、視界が切り替わり、太陽の存在しない真っ暗な世界が広がる。
「お゛兄゛ち゛ゃ゛ん゛!!!」
聞きなれたいつもの鈴を転がす美声が嘘のように、ガラガラに掠れた声が叫ぶのが聞こえた。
自然落下が始まる前に、パッと拘束していた漆黒の鎖が幻のように掻き消える。封天使が魔法を解いたのだろう。
咄嗟に受け身を取ろうと身体を動かし――痛みに動きを阻害され、息を詰めた。
(落ちる――!)
無様に地面に叩きつけられることを覚悟した瞬間、ふわりと重力から解放される感覚があった。
「な――?」
「お兄ちゃん!!!」
驚きに目を見開くと同時、温かく柔らかな何かが、包み込むように青年の身体を受け止めた。
「……アリィ?」
「おっ……お゛に゛……お兄ちゃ――ぅわぁあああああん!!」
ぎゅううううっと渾身の力で青年の身体を抱きしめながら、耳元で鼓膜が破れるのではないかと思うほどの声で少女の号泣が始まった。
「ご、ごめっ……ごめんなさいぃぃい!」
「アリィ……無事だったのですね。よかった」
泣き声の大きさと身体を抱きしめる力強さから、少女が無事であることを確認してホッと安堵の息を吐く。
青年によって”門”から送り返された後、魔王の手で体力を回復する魔法を施されたのだろう。
声が掠れているのは、完全に回復させるより先に封天使の対処を優先したからなのか、この地で割れんばかりの大声で号泣し続けているせいなのかはわからない。
「わ、私が、守るって約束したのにっ……絶対、お兄ちゃんを護るって、約束したのにぃっ……!ぅええええん!」
「アリィ、わかりましたから、落ち着いて……私は無事です。こうして、ちゃんと魔界に戻って来られたのですから」
滂沱と涙を流して慟哭する少女を落ち着かせるように優しい声音を心掛けるが、ひっくひっくと際限なくしゃくりあげる少女にはあまり効果がなさそうだ。
途方に暮れかけていると、ザリッ……と乾いた大地を踏む音がして、視線を上げる。
「どけ、人間。治癒の邪魔だ」
「魔王様!」
ぐいっと少女の肩に手をかけ、力任せに引きはがす主に、青年は驚いた声を上げる。
魔王は煩わしそうな顔で雑に手を振ると、すぐそばに魔方陣を生み出した。
「お前の部屋につなげてやった。すぐに戻れ」
「えっ、や、やだ!お兄ちゃんが治るまで見届ける!」
魔王の命令を間髪入れずに感情だけで拒否できるのは、この魔界ではアリアネルだけだろう。
涙を流しながらブンブンと頭を振る少女に、チッと小さく舌打ちして、わざわざ説明を必要とさせる愚かしさに苛立つように魔王は続けた。
「治癒は魔法の中でも飛び切りの高等魔法だ。一定以上の聖気の絶対量と、繊細なコントロールを必要とする。お前がいつものように聖気を無尽蔵に振り撒く存在ならそこにいても構わんが、今のようにただ泣きわめいて瘴気を振り撒くならむしろ害悪にしかならん」
「っ!」
ぴしゃりと正論をぶつけられ、ひぐっとしゃっくりを一つ挟んで嗚咽を飲み込む。
魔王の言葉を受け、彼女なりに瘴気を発生させないように努力しようとしたのだろう。聖気を発生させることが出来れば、むしろ治癒の手助けになるのだから。
「~~~~っ……ぅ……ぅぅ、ぐすっ……」
しかし、感受性が豊かな少女には難しいようだった。
乾いた大地に染み込む血だまりに沈んだまま、ぐったりと横たわる青年を見れば、どれだけ唇を噛み締めていても、涙と嗚咽が勝手にこみ上げてくる。
そもそも、聖気や瘴気を、意図的に発生させることなど出来はしない。
人間が日々思考し、感情を動かす中で、結果として生み出されるのが聖気であり瘴気だ。
世界で一番大好きな家族を、一歩間違えれば死なせてしまうかもしれなかった――そんな極限状態の恐怖の余韻を、魔王の言葉一つで脱することなど出来はしない。
自分が守る、と豪語していたにもかかわらず、ふたを開けてみれば、アリアネルは青年に守られてばかりだった。
不甲斐なさと、本当に元気になってくれるのかという心配で、彼女の人生では非常に珍しく、魂が陰って瘴気を生み出し続けている。
「ごめ、なさ……」
「チッ……もう一度言わねば、わからんか?」
これ見よがしに重いため息をついて低い声を響かせた魔王に、びくり、と肩を震わせる。
二人を見ていた青年は、困ったように眉を下げてから、そっと少女に手を伸ばした。
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