第228話 封天使⑦
赤子の頃から手塩にかけて育てた少女が光の中に吸い込まれるのを確認し、ホッと安堵すると同時、耳障りな音を立てて迫ってきた長い鎖が、即座に青年の身体を拘束した。
「っ、ぐ――がはっ……」
鎖の長さは、拘束力の強さだという魔王のかつての言葉通り、随分と長い鎖が身体中に巻き付き、指先一つ動かすことすら許さないと言わんばかりに、"影"の傷だらけの身体を容赦なく締め上げる。
「チッ……女は逃がしたか。だが、まぁ、いい。まさか、こんなところでお前に会えるとは思っていなかったからな。ゼルカヴィア」
コツコツと石床に響く足音は、抵抗の術を失った獲物を甚振るようにゆっくりと近づいてくる。
「どこかでお会いしたことがありましたかね……?生憎、変態天使に知り合いはいないはずなのですが――」
せめてもの抵抗とばかりに、ゼルカヴィアと遜色のない嫌味を飛ばしてみせるが、天使は気にした風もなく高らかに笑い声を上げた。
「ハハハッ!覚えていないのか?まぁ無理もない。以前、お前の顔を見たのは一万年前――今のお前とは似ても似つかない姿だった」
「あぁ……なるほど。あのときに居合わせた天使でしたか。すみませんねぇ。あのときはまだ未熟で、聖気に十分身体が慣れていなかったもので、息苦しさに意識が朦朧としていたのですよ。おかげで、私がはっきりと覚えているのは間近で顔を見た正天使だけで、周りにいたという雑魚天使については全く記憶がないのです」
乳白色の石床に広がっていく血液の海に沈みながらも、精一杯の嫌味をぶつけてやる。
しかし、獲物を前にした捕食者は、無抵抗の弱者が吼える言葉など気にも留めず、隠し切れない笑みを声に滲ませながら近づいてきた。
「まさか、気まぐれに降りた人間界で、積年の恨みを果たせるとは――今日は、随分と運がいい」
「恨み……?私には、
苛立ちとともに床に唾を吐き捨てる。口の中に、鉄の味がした。アリアネルを庇って背中に受けた傷の中に、あまり悠長に構えていられない傷があるのかもしれない。
失血で蒼い顔をし、荒い息を吐きながらも憎まれ口を閉じない青年に、天使は小馬鹿にしたように鼻で嗤う。
「貴様は、何も理解していないな。――お前は、存在そのものが、悪なのだ」
「ほぅ……?随分な言われようですね?参考までに、理由を伺っても?」
「説明せねばわからんと言うのか?――――貴様がいるせいで、命天使様が、魔界に縛られているというのに」
「――――」
ぱちり、と青年は驚いたように目を瞬く。
何とか力を振り絞って顔を傾ければ、いつの間にか随分傍に来ていたらしい天使の顔が視界に入った。
整った美しい顔に相応しくない、深い憎悪に歪んだ、醜い顔が。
「貴様のせいだ。貴様がいるせいで、我らの命天使様が、帰って来ない」
「――……」
「命天使様は、この世の頂点に立つに相応しい御方だ。あの正しく、美しく、厳しい御方があるべきは、暗澹たる魔界などではなく、造物主が心を尽くして生み出した楽園なのだ。貴様が――貴様さえ、いなければっ!」
唾を飛ばして激昂する天使に、”影”は呆れたように半眼になる。
「全く以て因果関係がわからない主張をされても困りますね。そもそも、魔王様に相応しいと言うその楽園から、魔王様を悪と断じて追放し、魔界に追いやったのはそちらでしょう。それを、帰ってきてくれないだの相応しくないだの……自業自得という言葉を辞書で引くことをお勧めしますよ」
やれやれ、とため息を吐く青年に、カッと封天使は怒りに顔を染めた。
「至高の主が君臨すべき玉座に、相応しくない仮の主が我が物顔で居座り、居丈高に天使を従え楽園を荒らす今の状況を、本来の命天使様であれば決して許すはずがない!」
「……はぁ」
「すぐにでも楽園にお戻りになり、世界を正すため、我ら天使を導いてくださるはずだ!」
「だから、そもそも魔王様を追放したのは貴方たち天使でしょう。発端は正天使の策略だったとしても、成り行きを見守るだけで何もしなかった者たちのために、魔王様が課された『天界勢力に介入しない』という制約を破ってまで手を差し伸べなければならない理由がありますか?」
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てると、ギリッ――と天使が奥歯を噛みしめる。
「俺は!っ――あの日命天使様が、一言、『共に来い』と言ってくだされば、全てを捨てて魔界へ堕ちる覚悟があった!」
「はぁ。それはそれは……崇高な御心をお持ちで」
激昂する天使をあしらうが、その態度はさらに怒りを募らせたようだった。
青年を縛り付ける鎖の拘束が、一段階きつくなる。
「っ、ぐ……」
「貴様如きに何がわかる!あの御方は、些末な感情で動くような矮小な御方ではない!過去にどのような確執があろうとも、それが世界にとって必要なことだと判断すれば、己の感情ではなく『役割』に忠実に責務を果たされる!何万年もの時を、生み出されたままの自分であり続ける難しさが、貴様如き若輩にわかるはすがない!」
「っ、は……なる、ほど……」
傷口にも容赦なく漆黒の鎖が食い込み、激痛が走る中、青年は脂汗を額に浮かべながら、薄ら笑いを浮かべる。
「何が可笑しい!!」
「いえ……滑稽だ、と思いまして」
ククッ……と喉の奥で小さく笑いをかみ殺す。
「偉そうに魔王様についてご高説を垂れていらっしゃいますが、貴方こそ、魔王様のことを何一つ理解していない」
「なんだと――!?」
「勿論私も、あの御方の全てを理解しているわけではありません。特にここ十五年ほどは、目を疑うような初めて見る一面を沢山知りましたから、右腕を名乗るのも烏滸がましいと反省していたくらいです。ですが、まぁ――少なくとも、貴方よりは、正しくあの方を理解しておりますよ」
身体をゆすり、ごろりと血だまりの中で姿勢を変え、天使を見上げる。
「確かにあの方は、類まれなる克己心の持ち主です。『役割』にどこまでも忠実な姿は、時に冷酷と恐れられ、時に神のように崇められます。ですが――ああ見えて、本質は、意外とお優しい方なのですよ」
「な、に――!?貴様、知ったような口を――!」
「貴方が言うほど、完璧な方でもありません。不器用で、意外と口下手です。誤解されることも多いですが、自分から誤解を解くこともされない。そして、これは本当に最近知った、私の万年の常識を覆した衝撃的な事実だったのですが――」
ふ、と口の端に笑みを刻む。
相手を挑発するような、嘲笑。
「――意外と、親馬鹿なんですよ。あの方」
「っ、貴様――!」
ひゅ――と天使は足を蹴り上げ、容赦なくつま先を青年の腹へと叩きこんだ。
「がっ……!は……!」
「貴様、貴様っ……我が主を愚弄するか!」
「っ、は……貴方の主は、正天使でしょう……」
「黙れ!黙れ、黙れ!」
何度も蹴りを叩きこまれながら、青年は決して怯むことなく封天使を見据える。
散々蹴り上げて息を荒げた天使に、青年は憐れむように声をかけた。
「当ててあげましょうか」
「何……?」
「貴方、昔から――魔王様に、嫌われていたでしょう」
「――――!?」
切れ長のエメラルドが、驚愕に見開かれる。
胸のすく思いを抱きながら、青年は嗤った。
「憐れですね。貴方のような、異常な執着を示す”愛”は、あの御方にとって嫌悪の象徴のような”愛”です。過剰な執着を見せ、狂気を孕んだ信奉を示す男など、なるべくなら傍に置きたくないと敬遠なさることでしょう」
「貴様――!」
「一言『ついて来い』と言われれば――などと言っていましたが、一万年もかけて、一度も気づかなかったのですか?あの方は、不名誉な堕天を誇り高く受け入れるために共連れを必要としなかったわけじゃない。もっとシンプルに――貴方など必要ない、とご判断されたにすぎません」
ザァッ――と冷水を浴びせられたように、頭から熱が冷えていく。
怒りの限度を超え、封天使は床に転がっていた"影"の魔剣を手に取った。
「貴様は、今、ここで殺す」
「おや。魔王様からは、慎重な性格と聞いていたのに、良いのですか。上司に報告しなくても」
「構わん。お前は命天使様の唯一の泣き所だ。正天使も、お前を仕留めたと聞けば、よくやったと褒められこそすれ、咎められることはない」
「そうですか。なるほど。そちらではそのような認識なのですね」
ふ、と思わず青年は笑みを刻む。
どこか、自嘲に近い、不思議な笑み。
「何が可笑しい」
苛立たし気に問いただされるが、青年は頭を振って回答を拒否した。
思い通りにならない男に苛つき、封天使は一息に息の根を止めるべく、青年の首へ狙いを定め、剣を大きく振りかぶった。
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